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泉涌寺雲龍院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''雲龍院''' | + | '''雲龍院'''(うんりゅういん)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある[[皇室]]ゆかりの[[真言宗]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[泉涌寺]]塔頭の筆頭で「泉涌寺別院」とされる。[[真言宗泉涌寺派]]別格本山。 |
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | + | 1372年(文中1年/応安5年)、聖皐竹巌が[[後光厳天皇]]の帰依を受けて創建。 | |
- | + | [[後円融天皇]]は如法写経を発願し寺領を寄進。 | |
- | + | 1416年(応永23年)9月10日、[[後小松上皇]]が御幸し、後光厳天皇と後円融天皇の御影に焼香したと『薩戒記』にある。 | |
- | + | [[称光天皇]]も帰依したという。 | |
後山には四天皇の分骨所が設けられたという。 | 後山には四天皇の分骨所が設けられたという。 | ||
- | + | 1470年(文明2年)、兵火で焼失。 | |
- | + | 1502年(文亀2年)、[[後柏原天皇]]が[[後土御門天皇]]使用の黒戸御殿を下賜し再建され、如法殿と称した。 | |
江戸時代初頭、如周正専が復興。 | 江戸時代初頭、如周正専が復興。 | ||
- | + | [[後水尾上皇]]の造営費下賜を受け、さらに1642年(寛永19年)、写経のための仏具100点余りを下賜された。 | |
以後、たびたび有縁の天皇の国忌に下賜金があった。 | 以後、たびたび有縁の天皇の国忌に下賜金があった。 | ||
- | + | 1843年(天保14年)以後、[[光格天皇]]妃や[[仁孝天皇]]皇女2人、[[孝明天皇]]皇女2人を後山に埋葬して菩提所としての性格を強め、 | |
玄関、方丈、勅使門を下賜。 | 玄関、方丈、勅使門を下賜。 | ||
- | + | 1866年(慶応2年)、霊明殿を建立し、1869年(明治2年)、現存の形に再建された。 | |
(しおり、『日本歴史地名大系』) | (しおり、『日本歴史地名大系』) | ||
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*書院: | *書院: | ||
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2020年11月10日 (火) 時点における版
雲龍院(うんりゅういん)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある皇室ゆかりの真言宗寺院。本尊は薬師如来。泉涌寺塔頭の筆頭で「泉涌寺別院」とされる。真言宗泉涌寺派別格本山。
歴史
1372年(文中1年/応安5年)、聖皐竹巌が後光厳天皇の帰依を受けて創建。 後円融天皇は如法写経を発願し寺領を寄進。 1416年(応永23年)9月10日、後小松上皇が御幸し、後光厳天皇と後円融天皇の御影に焼香したと『薩戒記』にある。 称光天皇も帰依したという。 後山には四天皇の分骨所が設けられたという。 1470年(文明2年)、兵火で焼失。 1502年(文亀2年)、後柏原天皇が後土御門天皇使用の黒戸御殿を下賜し再建され、如法殿と称した。
江戸時代初頭、如周正専が復興。 後水尾上皇の造営費下賜を受け、さらに1642年(寛永19年)、写経のための仏具100点余りを下賜された。 以後、たびたび有縁の天皇の国忌に下賜金があった。 1843年(天保14年)以後、光格天皇妃や仁孝天皇皇女2人、孝明天皇皇女2人を後山に埋葬して菩提所としての性格を強め、 玄関、方丈、勅使門を下賜。 1866年(慶応2年)、霊明殿を建立し、1869年(明治2年)、現存の形に再建された。 (しおり、『日本歴史地名大系』)
伽藍
- 本堂:本尊は薬師三尊。龍華殿と号す。後円融天皇発願の写経道場で、ここでの写経は天皇陵内の供養塔に納めるという。
- 霊明殿:後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の位牌と後光厳天皇・後円融天皇の坐像を中央に祀る。左には後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右には東福門院や普明照院ら皇族の位牌を祀る。
- 勅使門:
- 書院:
- 龍華堂: