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青森県護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年5月31日 (金)
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'''青森県護国神社'''(あおもりけん・ごこくじんじゃ)は、青森県弘前市の弘前城跡にある、県内の戦没者などを祀る[[招魂社]]。[[官祭招魂社]]。[[内務大臣指定護国神社]]。 | '''青森県護国神社'''(あおもりけん・ごこくじんじゃ)は、青森県弘前市の弘前城跡にある、県内の戦没者などを祀る[[招魂社]]。[[官祭招魂社]]。[[内務大臣指定護国神社]]。 | ||
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+ | ==歴史== | ||
+ | *1869年(明治2年)6月6日:弘前藩主津軽承昭、城下に招魂場を設置。戊辰戦争戦没藩士67柱を祀る(『靖国神社百年史』) | ||
+ | *1910年(明治43年):現在地に社殿造営。官祭招魂社。(『靖国神社百年史』) | ||
+ | *1939年(昭和14年)4月1日:内務大臣指定の「青森県護国神社」となる。(『靖国神社百年史』) | ||
+ | *1939年(昭和14年)4月29日:合祀祭。午後2時から。1501柱に加えて陸軍72柱・海軍6柱を合祀[https://dl.ndl.go.jp/pid/7953898/1/23]。 | ||
+ | *1960年(昭和35年)10月1日:合祀概了奉告祭(『全国護国神社会二十五年史』) | ||
+ | *1963年(昭和38年)5月21日:天皇皇后幣帛。植樹祭行幸(『全国護国神社会二十五年史』) | ||
+ | *1965年(昭和40年)10月15日:終戦20周年祭(『全国護国神社会二十五年史』) | ||
+ | *1971年(昭和46年)3月12日:財団法人青森県護国神社奉賛会、設立。(『全国護国神社会二十五年史』) | ||
==祭神== | ==祭神== | ||
+ | *1970年(昭和45年):2万8963柱[https://dl.ndl.go.jp/pid/7953898/1/23] | ||
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===官祭祭神=== | ===官祭祭神=== | ||
*01:小島左近貞邦:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。[[馬門官修墳墓]]に墓碑。 | *01:小島左近貞邦:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。[[馬門官修墳墓]]に墓碑。 | ||
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*07:坂元友弥清通:坂本友弥。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。 | *07:坂元友弥清通:坂本友弥。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。 | ||
*08:高杉権太郎時正:高杉権六郎。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。 | *08:高杉権太郎時正:高杉権六郎。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。 | ||
- | *09:石岡孫弥久法:石岡孫作。弘前藩。1868年(明治1年) | + | *09:石岡孫弥久法:石岡孫作。弘前藩。1868年(明治1年)10月24日、七重村で戦死。宝琳寺[[七飯官修墳墓]]、函館官修墳墓に墓碑。 |
*10:佐藤平吉忠常:弘前藩。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。寿昌院官修墳墓に墓碑。 | *10:佐藤平吉忠常:弘前藩。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。寿昌院官修墳墓に墓碑。 | ||
*11:工藤善司行公:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。弘前隣松寺に墓碑。全良寺官修墳墓に墓碑か。 | *11:工藤善司行公:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。弘前隣松寺に墓碑。全良寺官修墳墓に墓碑か。 | ||
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*14:関孝馬綱永:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。 | *14:関孝馬綱永:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。 | ||
*15:藤田文吉直法:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。 | *15:藤田文吉直法:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。 | ||
- | *16:葛西文三郎清生:弘前藩。1868年(明治1年) | + | *16:葛西文三郎清生:弘前藩。1868年(明治1年)10月24日、七重村で戦死。宝琳寺[[七飯官修墳墓]]、函館官修墳墓に墓碑。 |
*17:須藤惟一茂輔:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。勝岳院官修墳墓に墓碑。 | *17:須藤惟一茂輔:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。勝岳院官修墳墓に墓碑。 | ||
*18:田中又蔵正心:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。 | *18:田中又蔵正心:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。 | ||
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*21:米橋善二郎善方:八木橋善次郎。弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。安盛寺官修墳墓に墓碑。 | *21:米橋善二郎善方:八木橋善次郎。弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。安盛寺官修墳墓に墓碑。 | ||
*22:山内直吉永以:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。 | *22:山内直吉永以:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。 | ||
- | *23:金寅太郎豊正:弘前藩。1868年(明治1年) | + | *23:金寅太郎豊正:弘前藩。1868年(明治1年)10月23日、峠下村で戦死。函館官修墳墓、[[峠下官修墳墓]]に墓碑。 |
*24:小野政之助但正:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓、青岩寺官修墳墓に墓碑。 | *24:小野政之助但正:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓、青岩寺官修墳墓に墓碑。 | ||
*25:工藤末吉正一:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、一本木で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。 | *25:工藤末吉正一:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、一本木で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。 | ||
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*64:長之助:長男。1868年(明治1年)10月23日、峠下村で戦死。函館官修墳墓、[[峠下官修墳墓]]に墓碑。 | *64:長之助:長男。1868年(明治1年)10月23日、峠下村で戦死。函館官修墳墓、[[峠下官修墳墓]]に墓碑。 | ||
*65:久之助:久男。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。 | *65:久之助:久男。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。 | ||
- | *66:安之助:安男。1869年(明治2年)5月17日、二股で戦死。函館官修墳墓(個別墓碑と鹿児島藩合葬碑)に墓碑。 | + | *66:安之助:安男。1869年(明治2年)5月17日、二股で戦死。函館官修墳墓(個別墓碑と鹿児島藩合葬碑)に墓碑。[[二股口官修墳墓]]。 |
*67:定男:定吉。定之助。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓(個別墓碑と鹿児島藩合葬碑)に墓碑。 | *67:定男:定吉。定之助。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓(個別墓碑と鹿児島藩合葬碑)に墓碑。 | ||
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==組織== | ==組織== | ||
===社司・宮司=== | ===社司・宮司=== | ||
- | * | + | *林春之進(1861-?)<1939-?>:[[熊野奥照神社]]社司。1861年(文久1年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1120853/1/592]。[[高照神社]]社司を兼務。中津軽郡書記。1918年(大正7年)頃、和徳稲荷神社社司。弘前招魂社受持神官を経て青森県護国神社初代社司。 |
- | * | + | *山辺貞一郎(1908-1976)<>:和徳稲荷神社社司。1908年(明治41年)生。1931年(昭和6年)[[国学院大学]]卒。全国神職会評議員。弘前高等家政女学校教員。1939年(昭和14年)青森県護国神社社掌。1976年(昭和51年)10月10日死去。67歳。 |
+ | *山辺悠一()<>: | ||
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*『官祭弘前招魂社祭祀人名・官修墳墓埋葬人名』[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Viewer/4000539330000/c8efc3ece30e4662b1e8a5e18b82e1a3?p=1] | *『官祭弘前招魂社祭祀人名・官修墳墓埋葬人名』[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Viewer/4000539330000/c8efc3ece30e4662b1e8a5e18b82e1a3?p=1] |
2024年5月31日 (金) 時点における最新版
青森県護国神社(あおもりけん・ごこくじんじゃ)は、青森県弘前市の弘前城跡にある、県内の戦没者などを祀る招魂社。官祭招魂社。内務大臣指定護国神社。
目次 |
歴史
- 1869年(明治2年)6月6日:弘前藩主津軽承昭、城下に招魂場を設置。戊辰戦争戦没藩士67柱を祀る(『靖国神社百年史』)
- 1910年(明治43年):現在地に社殿造営。官祭招魂社。(『靖国神社百年史』)
- 1939年(昭和14年)4月1日:内務大臣指定の「青森県護国神社」となる。(『靖国神社百年史』)
- 1939年(昭和14年)4月29日:合祀祭。午後2時から。1501柱に加えて陸軍72柱・海軍6柱を合祀[1]。
- 1960年(昭和35年)10月1日:合祀概了奉告祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1963年(昭和38年)5月21日:天皇皇后幣帛。植樹祭行幸(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1965年(昭和40年)10月15日:終戦20周年祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1971年(昭和46年)3月12日:財団法人青森県護国神社奉賛会、設立。(『全国護国神社会二十五年史』)
祭神
- 1970年(昭和45年):2万8963柱[2]
官祭祭神
- 01:小島左近貞邦:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 02:成田求馬保定:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 03:高杉左膳尚良:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 04:谷口永吉貞光:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 05:藤田虎之助貞報:弘前藩。1869年(明治2年)4月29日、矢不来で戦死。檜山護国神社祭神。江差官修墳墓に墓碑。
- 06:山田要之進楯雄:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 07:坂元友弥清通:坂本友弥。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 08:高杉権太郎時正:高杉権六郎。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 09:石岡孫弥久法:石岡孫作。弘前藩。1868年(明治1年)10月24日、七重村で戦死。宝琳寺七飯官修墳墓、函館官修墳墓に墓碑。
- 10:佐藤平吉忠常:弘前藩。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。寿昌院官修墳墓に墓碑。
- 11:工藤善司行公:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。弘前隣松寺に墓碑。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 12:原田範司高清:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 13:波岡三蔵波正:弘前藩。浪岡。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 14:関孝馬綱永:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 15:藤田文吉直法:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 16:葛西文三郎清生:弘前藩。1868年(明治1年)10月24日、七重村で戦死。宝琳寺七飯官修墳墓、函館官修墳墓に墓碑。
- 17:須藤惟一茂輔:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。勝岳院官修墳墓に墓碑。
- 18:田中又蔵正心:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 19:山川啓吉清高:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 20:島村亀吉豊行:弘前藩。1869年(明治2年)4月29日、矢不来で戦死。檜山護国神社祭神。江差官修墳墓に墓碑。
- 21:米橋善二郎善方:八木橋善次郎。弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。安盛寺官修墳墓に墓碑。
- 22:山内直吉永以:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 23:金寅太郎豊正:弘前藩。1868年(明治1年)10月23日、峠下村で戦死。函館官修墳墓、峠下官修墳墓に墓碑。
- 24:小野政之助但正:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓、青岩寺官修墳墓に墓碑。
- 25:工藤末吉正一:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、一本木で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 26:井関運八祐綱:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 27:土岐貢貞豪:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 28:高木孫一正矩:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 29:神勇蔵忠利:弘前藩。1869年(明治2年)4月29日、矢不来で戦死。檜山護国神社祭神。江差官修墳墓に墓碑。
- 30:佐々木豹次郎貞之:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 31:佐々木良作久勝:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 32:山中重次郎泰坦:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 33:成田忠次郎武邑:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 34:館山正作貞成:弘前藩。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。鳳松院官修墳墓に墓碑。
- 35:木村昇以道:弘前藩。1869年(明治2年)4月29日、矢不来で戦傷死。正光寺官修墳墓に墓碑。
- 36:白取直之進長一:弘前藩。1869年(明治2年)5月17日、二股で戦傷死。月峰院官修墳墓に墓碑。
- 37:伊藤銀吉兼友:弘前藩。1869年(明治2年)4月29日、矢不来で戦傷死。梅林寺官修墳墓に墓碑。
- 38:中田盛弥産紀:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 39:榊田幸蔵良愛:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 40:岩崎彦蔵知之:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 41:竹中範平久貞:弘前藩。1869年(明治2年)5月12日、亀田口で戦死。函館官修墳墓に墓碑。
- 42:工藤岩吉久清:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 43:森山勝五郎定英:森山勝三郎。弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 44:芳賀多吉定英:羽賀多吉。弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 45:成田清太郎正勝:1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 46:大川豊太郎利清:1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 47:佐野左吉芳成:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 48:今銀作利宗:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 49:豊田乙吉忠久:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。
- 50:竹村長太郎友之:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 51:岩沼小兵衛実尚:弘前藩。1868年(明治1年)8月5日、矢島口の吉沢村で戦死。全良寺官修墳墓に墓碑か。
- 52:大川元太郎行忠:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 53:久米田巳八隆文:弘前藩。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 54:若林営八朝之:若林栄八。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 55:斉蔵東八嘉治:斎藤東八。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 56:諏方久吉真直:諏訪久吉。弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 57:佐藤純吉斯文:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 58:中田勝之亟一中:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 59:青木惣次郎之一:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。耕春院官修墳墓に墓碑。
- 60:須藤万之助貞久:弘前藩。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓、有川官修墳墓に墓碑。
- 61:三浦文弥実安:三浦銀弥。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓に墓碑。
- 62:文作:文男。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 63:清蔵:清男。1868年(明治1年)9月23日、野辺地で戦死。馬門官修墳墓に墓碑。
- 64:長之助:長男。1868年(明治1年)10月23日、峠下村で戦死。函館官修墳墓、峠下官修墳墓に墓碑。
- 65:久之助:久男。1868年(明治1年)9月16日、水沢村で戦死。
- 66:安之助:安男。1869年(明治2年)5月17日、二股で戦死。函館官修墳墓(個別墓碑と鹿児島藩合葬碑)に墓碑。二股口官修墳墓。
- 67:定男:定吉。定之助。1869年(明治2年)5月11日、亀田村で戦死。函館官修墳墓(個別墓碑と鹿児島藩合葬碑)に墓碑。
組織
社司・宮司
- 林春之進(1861-?)<1939-?>:熊野奥照神社社司。1861年(文久1年)生[3]。高照神社社司を兼務。中津軽郡書記。1918年(大正7年)頃、和徳稲荷神社社司。弘前招魂社受持神官を経て青森県護国神社初代社司。
- 山辺貞一郎(1908-1976)<>:和徳稲荷神社社司。1908年(明治41年)生。1931年(昭和6年)国学院大学卒。全国神職会評議員。弘前高等家政女学校教員。1939年(昭和14年)青森県護国神社社掌。1976年(昭和51年)10月10日死去。67歳。
- 山辺悠一()<>:
- 斎藤毅()<>: