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由義宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年12月10日 (月)
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*[[由義神社]]:八尾市八尾木北にある神社。「由義宮旧址」碑がある。足利健亮は由義宮の西北隅の地点と推定。 | *[[由義神社]]:八尾市八尾木北にある神社。「由義宮旧址」碑がある。足利健亮は由義宮の西北隅の地点と推定。 | ||
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+ | *足利健亮、1995「由義京の宮域および京域考」『考証・日本古代の空間』 | ||
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2018年12月10日 (月) 時点における最新版
由義宮(ゆげのみや)は、河内国若江郡(大阪府八尾市)周辺にあった副都。称徳天皇時代、法王道鏡を出した弓削氏の故郷に置かれた。西京と定められたことから、平城京や平安京のような都市の建設が計画されていたという説がある。中心となる宮殿に隣接する形で、巨大な塔を備える弓削寺(由義寺)があったようだが、いずれも遺構は発見されていない。平成28年(2016)には、遺物とみられる大量の瓦が出土した。
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歴史
『続日本紀』によると、765年(天平神護1年)10月29日、前年に重祚した称徳天皇は、紀伊行幸の帰路、由義宮の前身と思われる弓削行宮に立ち寄った。翌日には弓削寺に参拝。閏10月1日には弓削寺と知識寺に食封を与えている。そして2日、弓削行宮で道鏡を太政大臣禅師に任命した(のち法王となる)。宇佐神託事件のあった769年(神護景雲3年)の10月7日から2回目の行幸。滞在は23日間におよび、同月30日には由義宮と名付けた上、西京に定め、河内国に河内職を設置し、都に準ずる特別行政区とした。また19日には河内・龍華寺で市を開かせている。造由義大宮司、造由義寺司が設置され、本格的な都市建設が計画される。弓削寺は由義寺と書かれるようになる。そして翌年4月5日に称徳天皇行幸のもと、由義寺の塔が竣工した。この時の行幸でも40日近く滞在しており、天皇の由義宮重視の姿勢が分かる。しかし、同年8月4日に称徳天皇は崩御。建設計画はストップし、やがて荒廃したらしい。河内職も同月26日に廃止された。
構成
宮跡と推定される八尾市東弓削周辺は旧大和川が久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分岐する地点に当たる。旧大和川は平城京から法隆寺近くを通り、難波宮につながる重要な河川。由義宮が置かれた弓削地域はその中間地点に当たる交通の要衝だった。宮と弓削寺は旧大和川がぶつかって分岐する高台の上にあったと考えられている。(大阪府域の大和川の流路は江戸時代に付け替えられ、現在は大阪市と堺市の間を流れている)
由義京と呼べる都城計画があったと推定する足利健亮は、九条八坊を持つ、南北約5km、東西約4kmの京域が計画されていたと考察した。『続日本紀』の記述から河内・龍華寺と知識寺は「観念上、ここは都の中であった」とし、特に知識寺については難波京における四天王寺と同じ位置付けだったと指摘している。牛頭天王を祀る由義神社を『延喜式』にある畿内堺十処疫神につながる存在だと推定し、由義宮の痕跡の可能性があるとみている。
一覧
- 弓削寺:宮に隣接する形であったと推定されている。由義寺とも。のち金剛蓮華寺(廃絶)が後身とも。
- 河内・弓削神社_(東):八尾市東弓削にある神社。官社。由義宮の中枢施設がこのあたりにあったか。
- 河内・弓削神社_(西):八尾市弓削町にある神社。官社。足利健亮は由義宮の西南隅の地点と推定。
- 由義神社:八尾市八尾木北にある神社。「由義宮旧址」碑がある。足利健亮は由義宮の西北隅の地点と推定。
- 知識寺:柏原市太平寺。足利健亮は京域の東南隅に近い地点と推定。
- 河内・龍華寺:足利健亮は京域の西北隅の地点と推定。
- 河内・渋川神社:八尾市植松町にある神社。官社。龍華寺の鎮守という。
- 都留美島神社:八尾市都塚にある神社。官社。元は現在地から西方にあったという。
- 渋川廃寺:京域には入らないが周辺にあった。
参考文献
- 足利健亮、1995「由義京の宮域および京域考」『考証・日本古代の空間』