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新田神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*1742年5月:この時点で868石という。 | *1742年5月:この時点で868石という。 | ||
*1850年:社殿再興。 | *1850年:社殿再興。 | ||
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(『日本歴史地名大系』ほか) | (『日本歴史地名大系』ほか) | ||
2023年12月5日 (火) 時点における版
新田神社 にった じんじゃ | |
概要 | 瓊々杵尊陵に付随する神社。 |
奉斎 | 瓊々杵尊 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2 |
所在地(旧国郡) | 薩摩国高城郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 薩摩国一宮・国幣中社・別表神社 |
関連記事 | 宇佐八幡宮五所別宮・神代三代旧跡 |
目次 |
概要
新田神社は、鹿児島県薩摩川内市の瓊々杵尊の可愛山陵に付随する神社。現在と異なり、かつては八幡神を祀るとされ、新田八幡宮と称し、石清水八幡宮別宮で宇佐八幡宮五所別宮の一つだった。薩摩国一宮・国幣中社・別表神社。神宮寺は五大院。(参考:同名神社新田神社_(同名))
歴史
- 神代:瓊瓊杵尊、崩御。亀山に埋葬。
- 1131年2月30日:「在国司大前道助請文案」に在国司に「新田宮御殿」の造営を命ずる庁宣があっまことから、この頃には国衙管轄の神社として成立していたとみられる
- 1135年10月25日:石清水権寺主は五大院政所正信に寺領の耕作への指示を厳密にするように命じる。既に石清水八幡宮の支配下にあり、神宮寺五大院が成立していたことが分かる。
- 1165年7月:「寺家政所下文案」に「御建立以来三百余歳」とある。
- 1173年12月18日:焼失
- 1176年10 月14日:卜占の結果、宇佐八幡宮や石清水八幡宮にならって社殿を山腹から山頂に移して再建することとなる。しかし再建はうまく進まなかったらしい。
- 1194年5月:これ以後、以後「八幡新田宮」「新田八幡宮」の呼称が用いられる(「新田八幡宮所司等申状」など)。
- 1203年10月26日:鎌倉幕府、新田宮執印職に惟宗康友を任命。以後、執印職は惟宗氏の世襲となる。執印職と権執印職は御家人として鎌倉幕府に仕えた。
- 1256年4月:執印惟宗友成ら神官は、天孫瓊瓊杵尊を祀る可愛陵高城千台宮と新田八幡宮は一体であるから(国をあげて造営に取り組むべきであり)国中の庄公郡郷に等しく課税して費用を捻出するように上進する。
- 1268年8月:宇佐八幡宮、大隅正八幡宮、藤崎八旛宮、千栗八幡宮、筥崎宮、香椎宮がそれぞれ国をあげて造替しているのを引き合いにして、薩摩の国司の怠慢を許さず、造営の実施を求める。
- 1275年:蒙古撃退の霊験があったことなども記し、再び造営を求める。
- 1284年5月3日:鎌倉幕府、薩摩国守護の島津氏に薩摩国一宮と薩摩国分寺に異国降伏祈願を命じる
- 1287年3月:新田神社、薩摩国一宮は開聞神社ではなく新田神社だと主張。以後、両神社の間で争論が続く。
- 1291年6月:修造のため新田宮執印の上府(鎌倉?)が命じられた。
- 1293年:守護島津忠宗、いずれを一宮と定めることなく近年の例として新田神社に奉納。ただしこれが新田神社を一宮とする後押しとなる。
- 1299年3月:この年までに正殿・四所社・武内社などが造営された。他の社殿の造営を求める。
- 1324年5月:「新田宮所司神官等解文」で「薩摩国一宮八幡新田宮」と称す。
- 1587年4月17日:豊臣秀吉、禁制を掲げる。
- 1592年:豊臣秀吉、寺社領勘落政策で社領20町を残す。
- 1599年:島津忠恒、50石寄進
- 1601年:200石寄進。
- 1602年:島津義久、社殿修造
- 1602年12月:100石寄進
- 1742年5月:この時点で868石という。
- 1850年:社殿再興。
- 1885年(明治18年)4月22日:国幣中社に列格[1]。
(『日本歴史地名大系』ほか)
境内
- 本社:
- 可愛山陵:
- 中陵神社:
- 端陵神社:
- 若宮四所宮:
- 武内宮:
- 祖霊社:
- 二十四社:
- 稲荷神社:
- 興玉神社:
- 保倉神社:
- 高良神社:
- 中央神社:
- 早風神社:
- 門守神社:
- 門守神社:
- 九樓神社:
- 守公神社:
- 船間島神社:
- 川合陵神社
組織
執印、権執印などがあった。 執印は五大院院主を兼ね、俗体で、鎌倉時代からは惟宗氏が世襲。 権執印は五大院政所を兼ね、僧体。
執印
- 兼信()<>:紀氏宮里家の祖。
- 信経()<>:宮里家
- 桑田信包()<-1164->:
- 惟宗康友()<1203?->:惟宗氏初代。
- 惟宗康村()<>:康兼。
- 迎阿()<-1243->:最初は国分友久の妻。のち惟宗康村の妻。
- 惟宗友成()<-1256->:迎阿の長男。
- 惟宗康秀()<>:迎阿の三男。重兼、道教。
- 惟宗重友()<>:道厳。
- 惟宗友郷()<>:友里。教忍。
- 惟宗友雄()<-1338->:
- 惟宗友令()<-1403->:
権執印
- 覚暹()<-1195->:
- 永慶()<-1239->:
- 妙慶()<-1278->:
- 良暹()<-1333->:
- 俊正()<-1342->:
宮司
- 権執印正幸()<>:
- 本田豊()<>:竈門神社宮司から転任。
- 種子田八雲()<>:
- 種子田敬()<>:
画像
資料
- 『鹿児島県史料集』
- 『古事類苑』「新田神社」[5]
- 1939「可愛山陵と新田神社」[6]
- 『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』「新田神社」[7]
- 「東臼杵の經塚と新田八幡」[8]
- 『麑藩名勝考』「新田宮」[9]
- 日隈正守「新田宮・五大院の所領支配機構」[10]
- 「新田神社と可愛山陵」[11]
- 野崎道雄『新田神社の研究』