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高野山円通寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''円通寺'''(えんつうじ)は、和歌山県伊都郡高野町の[[高野山]][[金剛峰寺]]にある俊乗房[[重源]]ゆかりの[[真言宗]]寺院。本尊は釈迦如来。蓮華谷から南に進んだところにあり、[[浄土教]]と[[戒律]]の道場だった。中世の[[東大寺]]再建事業のために各地に設けられた[[東大寺七別所]]の一つ。近世、賢俊良永が入り戒律復興運動の拠点となり、さらに妙瑞が有部律の拠点とした。現在は密教作法を伝える高野山事相講伝所が置かれている。'''専修往生院'''、'''円通律寺'''、'''真別処'''。霊岳山律蔵院。[[高野山真言宗]]。[[東大寺関連旧跡]]も参照。(参考:同名寺院[[円通寺]]、[[往生院]]) | '''円通寺'''(えんつうじ)は、和歌山県伊都郡高野町の[[高野山]][[金剛峰寺]]にある俊乗房[[重源]]ゆかりの[[真言宗]]寺院。本尊は釈迦如来。蓮華谷から南に進んだところにあり、[[浄土教]]と[[戒律]]の道場だった。中世の[[東大寺]]再建事業のために各地に設けられた[[東大寺七別所]]の一つ。近世、賢俊良永が入り戒律復興運動の拠点となり、さらに妙瑞が有部律の拠点とした。現在は密教作法を伝える高野山事相講伝所が置かれている。'''専修往生院'''、'''円通律寺'''、'''真別処'''。霊岳山律蔵院。[[高野山真言宗]]。[[東大寺関連旧跡]]も参照。(参考:同名寺院[[円通寺]]、[[往生院]]) | ||
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- | [[空海]] | + | [[空海]]門下の智泉が創建したと伝えるが、不詳。中世、東大寺再建を任された重源がそのための拠点の一つとして再興。篤く浄土教を奉じた重源はここを専修念仏の道場とし、専修往生院と称した。その時期は重源が高野山に関わった記録がある安元2年(1176)頃から高野山を離れた文治3年(1187)以前のことと考えられている。修行の静謐な環境を確保するために寺院の中心部から離れて設けられた寺院を別所というが、高野山内にあった他の別所と区別して新別所と呼ばれ、のち真別処と呼ばれた。不断念仏や二十五三昧講が行われていた。文治3年頃には、小堂、湯屋、食堂、三重塔があった。重源の後は後継者もおらず、衰退したらしい。 |
江戸時代、慶長17年(1612)9月、玄俊という僧がのちに牛久藩主となる山口重政の支援で重源旧跡再興を発願。元和5年(1619)4月、再建し、西明寺流の賢俊良永を招き、中興1世とした。末寺として大和6寺、和泉1寺、下総1寺、摂津2寺、伊予7寺があった。恵深妙瑞が出て、四分律に基づく西明寺流を批判し、有部律を主張。有部律の根本道場を称した。その流派も近代には途絶えたようで、明治以降、[[蓮華乗院]]が兼務したが、戦後、本山直轄となり、金剛峰寺座主が円通寺住職を兼務。高野山事相講伝所が設置された。 | 江戸時代、慶長17年(1612)9月、玄俊という僧がのちに牛久藩主となる山口重政の支援で重源旧跡再興を発願。元和5年(1619)4月、再建し、西明寺流の賢俊良永を招き、中興1世とした。末寺として大和6寺、和泉1寺、下総1寺、摂津2寺、伊予7寺があった。恵深妙瑞が出て、四分律に基づく西明寺流を批判し、有部律を主張。有部律の根本道場を称した。その流派も近代には途絶えたようで、明治以降、[[蓮華乗院]]が兼務したが、戦後、本山直轄となり、金剛峰寺座主が円通寺住職を兼務。高野山事相講伝所が設置された。 |
2017年7月30日 (日) 時点における版
円通寺(えんつうじ)は、和歌山県伊都郡高野町の高野山金剛峰寺にある俊乗房重源ゆかりの真言宗寺院。本尊は釈迦如来。蓮華谷から南に進んだところにあり、浄土教と戒律の道場だった。中世の東大寺再建事業のために各地に設けられた東大寺七別所の一つ。近世、賢俊良永が入り戒律復興運動の拠点となり、さらに妙瑞が有部律の拠点とした。現在は密教作法を伝える高野山事相講伝所が置かれている。専修往生院、円通律寺、真別処。霊岳山律蔵院。高野山真言宗。東大寺関連旧跡も参照。(参考:同名寺院円通寺、往生院)
歴史
空海門下の智泉が創建したと伝えるが、不詳。中世、東大寺再建を任された重源がそのための拠点の一つとして再興。篤く浄土教を奉じた重源はここを専修念仏の道場とし、専修往生院と称した。その時期は重源が高野山に関わった記録がある安元2年(1176)頃から高野山を離れた文治3年(1187)以前のことと考えられている。修行の静謐な環境を確保するために寺院の中心部から離れて設けられた寺院を別所というが、高野山内にあった他の別所と区別して新別所と呼ばれ、のち真別処と呼ばれた。不断念仏や二十五三昧講が行われていた。文治3年頃には、小堂、湯屋、食堂、三重塔があった。重源の後は後継者もおらず、衰退したらしい。
江戸時代、慶長17年(1612)9月、玄俊という僧がのちに牛久藩主となる山口重政の支援で重源旧跡再興を発願。元和5年(1619)4月、再建し、西明寺流の賢俊良永を招き、中興1世とした。末寺として大和6寺、和泉1寺、下総1寺、摂津2寺、伊予7寺があった。恵深妙瑞が出て、四分律に基づく西明寺流を批判し、有部律を主張。有部律の根本道場を称した。その流派も近代には途絶えたようで、明治以降、蓮華乗院が兼務したが、戦後、本山直轄となり、金剛峰寺座主が円通寺住職を兼務。高野山事相講伝所が設置された。 (この項、日本歴史地名大系など)
組織
歴代
- 1賢俊良永(1585-1647):真言律の僧。対馬出身。高野山で出家。西明寺で恵雲に師事。
- 2真政円忍(1609-1677):法隆寺北室院を経て神鳳寺を律院とする。
- 3快円恵空(1622-1712):神鳳寺を付属され、師を招く。
- 8恵深妙瑞(1696-1764):讃岐国出身。恵深房。寛保3年に48歳で円通寺住職に就任。久米寺と通法寺を兼務。有部律復興の祖。
- 9本初密門(1707-1788):
- 10龍海: