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五流尊瀧院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
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*3澄意:道乗の子。 | *3澄意:道乗の子。 | ||
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2018年2月1日 (木) 時点における版
五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)は岡山県倉敷市にある修験道本山派の本山寺院。修験道本庁の総本山。倉敷・熊野神社に長床衆として奉仕した。五流尊瀧院関連旧跡。
組織
初期の住職
- 1義学:役小角の弟子。五鬼の一人。
- 2義玄:役小角の弟子。五鬼の一人。
- 3義真:役小角の弟子。五鬼の一人。
- 4寿元:役小角の弟子。五鬼の一人。
- 5芳元:役小角の弟子。五鬼の一人。
- 6神鏡
- 7義天:神鏡の子。
- 8雲照
- 9元具:雲照の子。
中興以降の住職
- 1頼仁親王(1201-1264):児島修験の開祖。後鳥羽天皇皇子。承久の乱に関わった罪で備前児島に流され、五流尊瀧院を中興。冷泉宮、児島宮。寺伝では享年を69歳とする。皇室治定の頼仁親王墓がある。
- 覚仁法親王(1198-1266):後鳥羽天皇皇子。熊野三山検校。新熊野検校。後嵯峨上皇の熊野行幸の先達を務めた。五流尊瀧院を中興。墓を桜井塚(治定外)という。
- 2道乗:頼仁親王の王子。子に澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範の6人がいた。
- 3澄意:道乗の子。
- 4頼宴:道乗の子。児島高徳の父と伝わる。
- 5重深
- 6回深
- 7頼深
- 8頼瑜
- 9湛深
- 10玄道
- 11乗玄
- 12乗宴
- 13隆宴
- 14隆以
- 15道宣
- 16宴順
- 17宣重
- 18宣親
- 19昌順
- 20回算
- 21玄応
- 22昌宴
- 23諦宴
- 24澄順
- 25玄宴
- 26澄玄
- 27澄宴
- 28澄与
- 29玄興
- 30覚道
- 31玄鑑
- 32抽興
- 33元興
- 34隆興:修験道廃止に際し、修験道の神道化を試みたが果たせなかった。
- 35宮家晋(?-1907):隆興の子。1907年(明治40年)死去。42歳。
- 36宮家教誉(1898-1991)<1924-1991>:修験道本庁初代管長。初名は龍興。晋の甥。一時期は東京で暮らしたが1923年(大正12年)の関東大震災の被災を機に岡山に帰郷。1924年(大正13年)に住職就任。旧末流の結集を密かに進め、戦後、修験道本庁を設立。1991年(平成3年)10月21日死去。94歳。
- 宮家道玄(1922-2011)<1992-2011>:修験道本庁2代管長。少年時代は満洲に住む。上海東亜同文書院大学に入学するがすぐに学徒出陣。1948年(昭和23年)京都大学卒。1949年(昭和24年)教誉に弟子入り。教誉の娘と結婚して、三宅信徳と名乗り、のち宮家信徳と名乗る。宗務総長を経て、1992年(平成4年)管長就任。1994年(平成6年)、中国泰山で入峰修行。1996年(平成8年)中国長白山(北朝鮮・白頭山)で入峰修行。1998年(平成10年)ギリシャ・アトス山を遥拝。男系相続の原則から歴代に数えられていないようだ。2011年4月14日死去。
- 37宮家堯仁(1933-)<2012->:宗教学者・宮家準として知られる。教誉の兄の子。母は法然の実家とされる立石家。東京都生まれ。教誉の養子となる。慶応義塾大学卒。東京大学大学院で岸本英夫に師事。博士課程修了。慶応義塾大学教授、国学院大学教授を歴任。日本宗教学会会長。修験道本庁3代管長。