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一向門流
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''一向門流'''は[[一向]]を祖とする[[浄土教]] | + | '''一向門流'''は[[一向]]を祖とする[[浄土教]]の流派。滋賀県米原市の[[番場蓮華寺]]を本山とし、山形県天童市の[[仏向寺]]を第二の拠点とする。[[一遍]]を祖とする[[時宗]]とは異なる。一遍は[[浄土宗西山派]]の聖達の門下だが、一向は[[浄土宗鎮西派]]の[[良忠]]の門下であり、法脈が異なる。開祖時代から門弟を「時衆」(時宗ではない)と称し、時宗と同じく阿弥衣を着用し、遊行と踊躍念仏を行うために昔から混同され、江戸時代には徳川幕府の政策により、時宗の一派とされてしまった。時宗と異なり、賦算は行わない。また「一向宗」とも呼ばれたため、[[浄土真宗]]と混同されることも多かった。 |
- | + | 南北朝時代から室町時代中期までが全盛期だったが、[[本願寺]][[蓮如]]の活発な布教活動により蓮華寺を中心とした近江・北陸の門弟は本願寺教団に吸収されたとみられる。一向の墓は蓮華寺にあるが、出羽仏向寺が東北地方で教線を広げて多くの末寺を擁したため、蓮華寺派(一向派)と仏向寺派(天童派)で本末を争う。江戸時代に幕府の裁定により蓮華寺が本山と定められた。江戸時代より、時宗から離れ、浄土宗鎮西派に接近する動きを見せており、明治以降も[[単称時宗|時宗]]からの独立運動を続け、宗教団体法施行を機に1942年(昭和17年)に一部の寺院を残して時宗を離れ現在は[[浄土宗知恩院派]]に所属して活動している。しかし、浄土宗に吸収され、一向門流としての独自性は薄れつつあるようにも考えられる。 | |
- | + | なお'''一向派'''と呼ばれることが多いが、時宗の一流派としての名称であると考えられるので本サイトでは'''一向門流'''と呼称する。 | |
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==歴史== | ==歴史== | ||
+ | *1239年(延応1年):[[一向]]誕生。 | ||
+ | *1259年(正元1年):一向、[[良忠]]に師事。 | ||
+ | *1273年(文永10年):一向、遊行を始める。 | ||
+ | *1274年(文永11年):一向、[[大隅八幡宮]]で神託を得る。 | ||
+ | *1276年(建治2年):寺伝によると[[宇都宮一向寺]]を創建。 | ||
+ | *1278年(弘安1年):寺伝によると、一向、源頼直に迎えられて出羽国最上郡成生に仏向寺を創建(のち天童に移転)。 | ||
+ | *1284年(弘安7年):一向、坂田郡番場米山の麓に草堂で念仏。草堂の主の畜能・畜生と豪族土肥元頼が帰依して滞在を決める。土肥元頼の寄進で[[蓮華寺]]を創建。 | ||
+ | *1287年(弘安10年)11月18日:一向、蓮華寺で死去。49歳。 | ||
+ | *一向高弟の行蓮、仏向寺を建てる。その門下が出羽国に次々と寺院を建てるがその多くに善光寺如来が伝わっており、[[善光寺信仰]]を足場に布教していったらしい。 | ||
+ | *1304年(嘉元2年)9月:鎌倉幕府、諸国巡歴するものを取り締まり、「一向衆」と称すものは巡歴の有無を問わず禁止した。12月、[[大谷廟堂]][[唯善]]は[[専修寺]][[顕智]]に手紙を送り、真宗との混同に注意を促している。 | ||
+ | *1309年(延慶2年)1月11日:蓮華寺、[[勅願所]]の綸旨を賜う。 | ||
+ | *1321年(元亨1年):[[本願寺]][[覚如]]、真宗門徒と一向衆の混同を正すように幕府に上申。 | ||
+ | *1333年(元弘3年/正慶2年)5月:北条仲時ら蓮華寺のそばで自決。3世同阿は死者430人に阿弥陀仏号を与えて陸波羅南北過去帳に記入した。 | ||
+ | *1333年(元弘3年/正慶2年)5月18日:[[鎌倉]]の[[前浜一向堂]]の前で[[新田義貞]]と北条方の合戦。 | ||
+ | *1490年(延徳2年):[[蓮如]]、御文に「それ一向宗といふは時衆方の名なり。一遍一向これなり。其源は江州番場の道場、これ即ち一向宗なり」(帖外御文)と記す。 | ||
+ | *戦国時代:蓮如の布教により近江・北陸の一向門流が本願寺教団に吸収されたとみられる。 | ||
+ | *1562年(永禄5年)10月15日:蓮華寺、[[正親町天皇]]から勅願所の綸旨を賜う。 | ||
+ | *1600年(慶長5年)9月25日:蓮華寺23世同阿健梁、[[徳川家康]]に十念を授ける。 | ||
+ | *1686年(貞享3年):蓮華寺、仏向寺、[[宇都宮一向寺]]、[[小栗一向寺]]が本末を争うが、幕府の裁定で蓮華寺が本山となる。 | ||
+ | *1697年(元禄10年):時宗[[遊行派]]の[[日輪寺]]呑了が『時宗要略譜』を記し、一向を一遍の弟子と記し、一向派と天童派を時宗の一派と記す。この時には時宗に組み込まれていた。 | ||
+ | *江戸時代中期:『八葉山蓮華寺末寺帳』に154寺記載。 | ||
+ | *1760年(宝暦10年)11月:蓮華寺32世同阿、晋山の時、参内して小御所で拝謁。 | ||
+ | *1788年(天明8年):時宗触頭日輪寺が末寺帳を幕府に提出。一向派・天童派として97寺を記載。 | ||
+ | *1942年(昭和17年)3月7日:一向派寺院浄土宗帰属について浄土宗と時宗が折衝して合意(浄土宗近代百年史年表)。 | ||
+ | *1942年(昭和17年)6月6日:蓮華寺・仏向寺など57寺が転属(浄土宗近代百年史年表)。時宗にとどまった寺院もある。 | ||
+ | *1942年(昭和17年)6月7日:蓮華寺で奉告法要(浄土宗近代百年史年表)。 | ||
+ | *不詳:蓮華寺、浄土宗本山に昇格する。 | ||
== 一覧 == | == 一覧 == | ||
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*[[常陸・一向寺]] | *[[常陸・一向寺]] | ||
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*『時宗一向派仏向寺長並中末寺書上』 | *『時宗一向派仏向寺長並中末寺書上』 | ||
*『仏向寺末開基録』:蓮華寺蔵 | *『仏向寺末開基録』:蓮華寺蔵 | ||
+ | *「二祖礼智阿上人消息」 | ||
+ | *「時宗一向寺由来」 | ||
===文献=== | ===文献=== |
2021年8月15日 (日) 時点における版
一向門流は一向を祖とする浄土教の流派。滋賀県米原市の番場蓮華寺を本山とし、山形県天童市の仏向寺を第二の拠点とする。一遍を祖とする時宗とは異なる。一遍は浄土宗西山派の聖達の門下だが、一向は浄土宗鎮西派の良忠の門下であり、法脈が異なる。開祖時代から門弟を「時衆」(時宗ではない)と称し、時宗と同じく阿弥衣を着用し、遊行と踊躍念仏を行うために昔から混同され、江戸時代には徳川幕府の政策により、時宗の一派とされてしまった。時宗と異なり、賦算は行わない。また「一向宗」とも呼ばれたため、浄土真宗と混同されることも多かった。 南北朝時代から室町時代中期までが全盛期だったが、本願寺蓮如の活発な布教活動により蓮華寺を中心とした近江・北陸の門弟は本願寺教団に吸収されたとみられる。一向の墓は蓮華寺にあるが、出羽仏向寺が東北地方で教線を広げて多くの末寺を擁したため、蓮華寺派(一向派)と仏向寺派(天童派)で本末を争う。江戸時代に幕府の裁定により蓮華寺が本山と定められた。江戸時代より、時宗から離れ、浄土宗鎮西派に接近する動きを見せており、明治以降も時宗からの独立運動を続け、宗教団体法施行を機に1942年(昭和17年)に一部の寺院を残して時宗を離れ現在は浄土宗知恩院派に所属して活動している。しかし、浄土宗に吸収され、一向門流としての独自性は薄れつつあるようにも考えられる。 なお一向派と呼ばれることが多いが、時宗の一流派としての名称であると考えられるので本サイトでは一向門流と呼称する。
目次 |
歴史
- 1239年(延応1年):一向誕生。
- 1259年(正元1年):一向、良忠に師事。
- 1273年(文永10年):一向、遊行を始める。
- 1274年(文永11年):一向、大隅八幡宮で神託を得る。
- 1276年(建治2年):寺伝によると宇都宮一向寺を創建。
- 1278年(弘安1年):寺伝によると、一向、源頼直に迎えられて出羽国最上郡成生に仏向寺を創建(のち天童に移転)。
- 1284年(弘安7年):一向、坂田郡番場米山の麓に草堂で念仏。草堂の主の畜能・畜生と豪族土肥元頼が帰依して滞在を決める。土肥元頼の寄進で蓮華寺を創建。
- 1287年(弘安10年)11月18日:一向、蓮華寺で死去。49歳。
- 一向高弟の行蓮、仏向寺を建てる。その門下が出羽国に次々と寺院を建てるがその多くに善光寺如来が伝わっており、善光寺信仰を足場に布教していったらしい。
- 1304年(嘉元2年)9月:鎌倉幕府、諸国巡歴するものを取り締まり、「一向衆」と称すものは巡歴の有無を問わず禁止した。12月、大谷廟堂唯善は専修寺顕智に手紙を送り、真宗との混同に注意を促している。
- 1309年(延慶2年)1月11日:蓮華寺、勅願所の綸旨を賜う。
- 1321年(元亨1年):本願寺覚如、真宗門徒と一向衆の混同を正すように幕府に上申。
- 1333年(元弘3年/正慶2年)5月:北条仲時ら蓮華寺のそばで自決。3世同阿は死者430人に阿弥陀仏号を与えて陸波羅南北過去帳に記入した。
- 1333年(元弘3年/正慶2年)5月18日:鎌倉の前浜一向堂の前で新田義貞と北条方の合戦。
- 1490年(延徳2年):蓮如、御文に「それ一向宗といふは時衆方の名なり。一遍一向これなり。其源は江州番場の道場、これ即ち一向宗なり」(帖外御文)と記す。
- 戦国時代:蓮如の布教により近江・北陸の一向門流が本願寺教団に吸収されたとみられる。
- 1562年(永禄5年)10月15日:蓮華寺、正親町天皇から勅願所の綸旨を賜う。
- 1600年(慶長5年)9月25日:蓮華寺23世同阿健梁、徳川家康に十念を授ける。
- 1686年(貞享3年):蓮華寺、仏向寺、宇都宮一向寺、小栗一向寺が本末を争うが、幕府の裁定で蓮華寺が本山となる。
- 1697年(元禄10年):時宗遊行派の日輪寺呑了が『時宗要略譜』を記し、一向を一遍の弟子と記し、一向派と天童派を時宗の一派と記す。この時には時宗に組み込まれていた。
- 江戸時代中期:『八葉山蓮華寺末寺帳』に154寺記載。
- 1760年(宝暦10年)11月:蓮華寺32世同阿、晋山の時、参内して小御所で拝謁。
- 1788年(天明8年):時宗触頭日輪寺が末寺帳を幕府に提出。一向派・天童派として97寺を記載。
- 1942年(昭和17年)3月7日:一向派寺院浄土宗帰属について浄土宗と時宗が折衝して合意(浄土宗近代百年史年表)。
- 1942年(昭和17年)6月6日:蓮華寺・仏向寺など57寺が転属(浄土宗近代百年史年表)。時宗にとどまった寺院もある。
- 1942年(昭和17年)6月7日:蓮華寺で奉告法要(浄土宗近代百年史年表)。
- 不詳:蓮華寺、浄土宗本山に昇格する。
一覧
資料
古典籍
- 『一向上人伝』:近世以降の写本しか現存しない。大正大学図書館本(1690年(元禄3年)書写)。『一遍聖絵』を参考に作成された節があるという。
- 『仏向寺本一向上人伝』:江戸時代末の書写。仏向寺蔵。5巻。
- 『仏向寺縁起羽州化益伝』:仏向寺蔵。1293年(永仁1年)の奥書があるが、仏向寺が本山であることを否定された1687年(貞享4年)以降の作とみられる。
- 『一向上人臨終絵』:蓮華寺旧蔵本(個人蔵)。
- 『一向上人臨終記』:写本は明石法音寺旧蔵本(現存不詳)、市姫金光寺本(1916年(大正5年)に遊行64世尊昭筆写本より書写)。
- 『称阿瑞夢記』:称阿著。一条冬良筆。
- 『元祖一向上人宗脈口訣』:
- 『蓮華寺縁起』:東園基賢著。
- 『蓮華寺縁起別記』:
- 『一向上人血脈譜』:
- 『八葉山蓮花寺末寺帳』:
- 『陸波羅南北過去帳』
- 「蓮華寺歴代名簿」:宇都宮一向寺蔵。
- 『近江国八葉山蓮華寺縁起』:[1]
- 「近江国番場蓮華寺鐘銘」[2]
- 小川寿一編・竹内禅真監修1983『浄土宗本山蓮華寺史料』蓮華寺寺務所
- 小川寿一編1986『一向上人の御伝集成』蓮華寺寺務所
- 大橋俊雄編1993『明治期一向派史料』:
- 『時宗一向派起源抄』
- 佐原窿応編1886『葉山古錦』[3][4]
- 『一向派浄土宗帰入関係史料』
- 『近江国番場宿蓮華寺過去帳』[5]:「陸波羅南北過去帳」
- 「仏向寺血脈譜」:山形県史資料編に所収
- 「仏向寺明細簿」:1887年(明治20年)8月。『天童市史編集資料』33
- 「宝樹山称名院仏向寺縁起」:『天童市史編集資料』33
- 「天童落城並仏向寺縁起」:『天童市史編集資料』22
- 「天童仏向寺末寺開基録」
- 文化庁1974「仏向寺踊躍念仏」『無形文化財記録.芸能編3(民俗芸能風流・東日本)(別冊)』
- 山形県天童市教育委員会1997『高野坊遺跡発掘調査報告書』[6]
- 東北芸術工科大学歴史遺産学科荒木研究室2007『佛向寺の墓標調査報告書:天童市域における墓標の成立と展開』
- 『宝樹山称名院仏向寺血脈譜写』:西沢文書
- 『時宗一向派仏向寺長並中末寺書上』
- 『仏向寺末開基録』:蓮華寺蔵
- 「二祖礼智阿上人消息」
- 「時宗一向寺由来」
文献
- 高井景成1937「時宗教団史の一考察:特に一向派と遊行派との関係に就て」『鴨台史報』5
- 大橋俊雄1951「一向上人:番場遊記」『浄土』17
- 大橋俊雄1963『番場時衆のあゆみ』:初のまとまった研究書。
- 大橋俊雄1994『佐原窿応上人』一向寺
- 大橋俊雄1999『浄土宗本山蓮華寺』
- 伊藤真徹1964「一向上人と踊躍念仏」[7]
- 森暢1964「一向上人の臨終絵と画像」『國華』869(森暢『鎌倉時代の肖像画』に再録)
- 徳田浩淳1975「一向寺の歴史」『下野歴史』41(1976『一向寺の歴史と文化財』に再録)
- 徳田浩淳1975「一向寺の文化財」『下野歴史』41(1976『一向寺の歴史と文化財』に再録)
- 梯実円1975「礼智阿消息の真偽について」『竜谷教学』10
- 河野憲善1988「一向上人の念仏思想」『藤沢市史研究』21
- 竹田賢正1989「村山地方の時宗一向派について」
- 清水信亮1989「一向上人研究ノート」『時宗教学年報』17
- 田中久夫1972「一向上人俊聖の一史料」
- 金井清光1975『時衆と一遍教団』
- 1997『成生庄と一向上人:中世の念仏信仰』天童市立旧東村山郡役所資料館
- 長澤昌幸1999「一向上人研究序説(1)『一向上人伝』について」『時宗教学年報』27
- 長澤昌幸2010「一遍教学の一試論:一向俊聖との比較を中心に」[8]
- 古賀克彦2000「佐原窿応と山崎弁栄:近代「時宗」の様相」『印度學佛教學研究』[9]
- 竹内真道2004「蓮華寺蔵『元祖一向上人御絵伝五巻』(五巻伝)について」
- 2006『法灯連綿清照山一向寺』
- 峯崎賢亮2007「時宗一向派第四十五世同阿作一向上人行状和讃について」『時宗教学年報』35
- 島遼伍2009『名門下野宇都宮家二十二代記位牌寺一向寺』
- 井澤隆浩2015「一向諸伝の成立について」『寺社と民衆』11
- 井澤隆浩2017「一向俊聖伝の考察:『一向上人縁起絵詞』を中心として」
- 坂本要2016「踊り念仏の種々相(2):導御・一向・一遍・他阿」『筑波学院大学紀要』11
- 1955「東村山郡天童町仏向寺碑」『山形県文化財調査報告書』6
- 1966「仏向寺縁起について」『民間念仏信仰の研究資料編』
- 誉田慶恩・横山昭男1970「仏向寺と時衆」『山形県の歴史』
- 1984『天童市史:別巻下文化・生活篇』「仏向寺」
- 村木志伸2005「佛向寺の墓石調査について」『山形県地域史研究』30
- 古賀克彦2013「「近侍者記録」に見る天保年間の番場・天童関係記事:付天明元年の市屋金光寺関係記事と新女院使来山記事」『寺社と民衆』9
- 『近江国坂田郡志』「蓮華寺」[10]
- 大橋俊雄『一遍と時宗教団』