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浄興寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1232年(貞永1年)8月、草庵を去るにあたり親鸞は善性を後継とすると共に「掟二十一ケ条」を定めて授けたという(高田市史)。 | 1232年(貞永1年)8月、草庵を去るにあたり親鸞は善性を後継とすると共に「掟二十一ケ条」を定めて授けたという(高田市史)。 | ||
1235年(嘉禎1年)将軍藤原頼経が信濃国長沼3000貫を寄進したと伝える(高田市史)。 | 1235年(嘉禎1年)将軍藤原頼経が信濃国長沼3000貫を寄進したと伝える(高田市史)。 | ||
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創建の事情ははっきりしないが稲田の草庵が発展して寺院となったとみられる。 | 創建の事情ははっきりしないが稲田の草庵が発展して寺院となったとみられる。 | ||
のち下総国猿島郡磯部郷(茨城県古河市磯部)に移転。 | のち下総国猿島郡磯部郷(茨城県古河市磯部)に移転。 | ||
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『高田市史』によると移転したのは専海の時というが、『真宗年表』に記す善性の没年は1268年(文永5年)となっている。 | 『高田市史』によると移転したのは専海の時というが、『真宗年表』に記す善性の没年は1268年(文永5年)となっている。 | ||
2021年12月30日 (木) 時点における版
浄興寺(じょうこうじ)は、新潟県上越市寺町にある親鸞ゆかりの浄土真宗の本山寺院。本尊は阿弥陀如来。真宗浄興寺派本山。稲田の草庵を継承する。親鸞の頂骨を納める墓所。信濃国(長野市周辺)にあった期間も長かった。浄土真宗興行寺を略して浄興寺という。柏崎別院がある。山号は歓喜踊躍山。
目次 |
歴史
親鸞が1217年(建保5年)常陸国笠間郡に開いた稲田の草庵が起源とされる(稲田浄興寺)。1224年(元仁1年)教行信証が完成すると歓喜して踊躍したため親鸞は「歓喜踊躍山浄土真宗興行寺」と名付けたという(高田市史)。 1232年(貞永1年)8月、草庵を去るにあたり親鸞は善性を後継とすると共に「掟二十一ケ条」を定めて授けたという(高田市史)。 1235年(嘉禎1年)将軍藤原頼経が信濃国長沼3000貫を寄進したと伝える(高田市史)。 1263年(弘長3年)、善性は遺言で親鸞の頂骨を持ち帰って納めた。以後、善性の子孫が世襲したという。 創建の事情ははっきりしないが稲田の草庵が発展して寺院となったとみられる。 のち下総国猿島郡磯部郷(茨城県古河市磯部)に移転。 1267年(文永4年)、寺領のあった信濃国水内郡長沼(長野県長野市長沼)に移転(長沼浄興寺)。 『高田市史』によると移転したのは専海の時というが、『真宗年表』に記す善性の没年は1268年(文永5年)となっている。
1561年(永禄4年)川中島合戦の兵火で焼失。この時、13世周円が焼死した。水内郡小市村(長野県長野市安茂里小市)に逃れて中坊と称した(高田市史)。
領主となった上杉謙信の寄進で信濃別府(長野県東御市滋野別府)で再建。
14世了性(1536-1595)、15世善芸(1559-1647)の時代に大きく復興することになる。1567年(永禄10年)(天正年間とも)、上杉景勝に招かれ、越後国の春日山城下町(新潟県上越市中屋敷春日山)に移転。堀秀政が入り、拠点を福島城(新潟県上越市港町)に移すと、その城下町に移転した。 1614年(慶長19年)、松平忠輝の高田築城で城下の須賀町裏元寺町に移る。1646年(正保3年)高田大火で焼失。1665年(寛文5年)の地震で被災。現在地に移転した。 東西分派にあたっては東本願寺末となり、北陸の有力寺院として重視された。 16世教善は東本願寺教如の猶子となりその娘を正室に迎えた。 1667年(寛文7年)、17世宣性は隠居を命じられた。以後、隆盛に陰りがみえる。 1684年(貞享1年)、新井願生寺との間に宗義論争が起こり、願生寺は「異安心」とされ追放された。 19世一周(1684-1755)の時代には本山の命で末寺を剥奪された。 20世真観(1718-1738)は1738年(元文3年)11月21日、東本願寺で自殺。21歳。善性以来の家系が断絶した。
1880年(明治13年)から分派運動を始めたが実らなかった。信教の自由が認められた戦後に大谷派を離れ、本山を称し、浄興寺派を組織した。
親鸞の頂骨と歴代本願寺住職の分骨を収める祖師廟の再建を1882年(明治15年)に企画し、1888年(明治21年)に竣工した。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
伽藍
子院
高田市史による。
- 正光寺:長沼浄興寺時代の創建という。兵火で焼失し、頸城郡三本木に移転。敬恵が1593年(文禄2年)春日山麓に移転し、浄興寺子院となった。出身者に歴史学者の長沼賢海(1883-1980)がいる。
- 浄泉寺:創建不詳。中興宗誓が浄興寺15世善芸の弟子となり越後に来て高田開府にときに浄興寺子院となる。
- 浄正寺:創建不詳。善西が浄興寺9世巧親に師事し、信濃国筑摩郡村井村に創建。のち越後の頸城郡大崎郷三俣生姜塚に移る。1598年(慶長3年)浄興寺子院となる。
- 正念寺:創建不詳。中興の休玄は浄興寺15世善芸の弟子。文禄年間は頸城郡姫川原にいたが明暦頃、地頭方村に移り、万治年間、浄興寺子院となる。
- 玄興寺:創建不詳。浄興寺家令を世襲する井上家が創建。井上家出身の浄円が浄興寺15世善芸の弟子となり、浄興寺の高田移転と共に属す。稲田鍛冶町にあったが寛永年間に現在地に移転した。
- 西光寺:文禄年間、浄興寺15世善芸の弟子の法珍が柏崎に創建。寛永年間に浄興寺子院となる。
- 専称寺:1450年(宝徳2年)浄恵が信濃国水内郡中条村に創建。恵勝寺と称した。越後春日に移転して恵称寺(専称寺?)と改称。寛永初年に浄興寺子院となる。
- 善福寺:創建不詳。浄興寺15世善芸の弟子の順理が1598年(慶長3年)に越後国福島城下の善光寺町に再興した。1636年(寛永13年)浄興寺子院となる。
- 勝見寺:1574年(天正2年)、信濃水内郡今井村の賢従が浄興寺14世了性の弟子となり浄興寺の子院として創建。浄興寺と共に現在地に移転した。
関連旧跡
1771年(明和8年)の『大谷遺蹟録』には寺中9寺、末寺102寺、掛所3寺あると記す。1914年(大正3年)の『高田市史』によると、江戸時代初頭には寺中9寺、越後国内に43寺、信濃国に7寺あり、同書の時点で末寺13寺と兼帯3寺があった。
- 浄興寺柏崎別院:新潟県柏崎市西本町。鵜川御坊。門前の高麗木橋(こうろぎはし)から「こうろぎの御坊」とも呼ばれた(菅江真澄『筆のまにまに』)。
- 浄円寺:山形県米沢市中央。1914年(大正3年)時点で浄興寺兼帯寺院だった(高田市史)。真宗大谷派。
- 正源寺:長野県中野市赤岩か。小泉村。1914年(大正3年)時点で浄興寺兼帯寺院だった(高田市史)。真宗大谷派。
- 西方寺:長野県飯山市照里。小泉村。1644年(正保1年)正源寺の老僧が創建。1809年(文化6年)西本願寺直末に移る。浄土真宗本願寺派。山号は長峰山。(日本歴史地名大系)
- 西楽寺:新潟県長岡市千代栄町。加賀一向一揆で小松城から逃れた春日平次郎は浄興寺で剃髪して創建。石山合戦で功を挙げ、本願寺顕如から浄慶の法名と宝物を拝領したという。現在は浄土真宗本願寺派。(日本歴史地名大系)
- 妙行寺:新潟県上越市寺町。浄興寺末だった(日本歴史地名大系)。真宗大谷派。
- 専徳寺:新潟県燕市長所。信濃国高井郡須田村(長野県須坂市)にあった。1594年(文禄3年)の創建。教如の時代に浄興寺を手次寺として木仏本尊免状が下付された。浄土真宗東本願寺派。(日本歴史地名大系ほか)
- 広西寺:新潟県長岡市柿町。上杉房能の陪臣の鷲尾広久が謙信兄弟不和の時、どちらにつくのも嫌い、1560年(永禄3年)、浄興寺で剃髪。浄玄坊漸西と名乗った。長倉村に寺を建て、俗名の「広久」と法名の「漸西」から一字ずつ取って広西寺と称した。1622年(元和8年)に現在地に移転した。真宗大谷派。(日本歴史地名大系)
- 念宗寺:新潟県上越市大島区菖蒲。1616年(元和2年)浄興寺僧侶の了誓が山五十公郷高沢村石塚(新潟県上越市安塚区高沢石塚)に創建。1653年(承応2年)現在地に移転。現在は浄土真宗本願寺派。
- 正覚寺:新潟県長岡市長町。『大谷遺蹟録』に「高田浄興寺の分寺也」とある。永禄年間の創建。浄土真宗本願寺派。
組織
歴代住職
- 25世まで主に『真宗年表』による。
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 親鸞 | 1173-1262 | 1217-1232? | 宗祖。 |
2 | 善性 | 1199-1268 | 1232?- | 周観鸞英。後鳥羽天皇皇子。二十四輩の一人。1268年(文永5年)8月20日死去。70歳。 |
3 | 善海 | 1221-1282 | 周円。善性の子。1282年(弘安5年)2月1日死去。62歳。 | |
4 | 専海 | 1259-1318 | 法性。1259年(正元1年)生。享年から計算したら1253年(建長5年)生。1318年(文保2年)4月2日死去。66歳。 | |
5 | 空観 | 1303-1371 | 応性。1371年(建徳2年/応安4年)1月10日死去。69歳。 | |
6 | 善秀 | 1353-1431 | 芸範。本願寺に遊学。1431年(永享3年)8月22日死去。79歳。 | |
7 | 性順 | 1394-1472 | 英観。本願寺に遊学。本願寺との関係を深め、1424年(応永31年)から翌年にかけて常楽寺4世の空覚の許可を得て存覚の『顕名鈔』『決智鈔』『浄土見聞集』『諸神本懐集』などの聖教を書写した。1472年(文明4年)6月20日死去。79歳。 | |
8 | 周観 | 1399-1465 | 芸秀。本願寺に遊学。1465年(寛正6年)7月22日死去。67歳。 | |
9 | 巧観 | 1424-1502 | 従範。1502年(文亀2年)6月4日死去。79歳。 | |
10 | 了周 | 1446-1511 | 英正。巧観の長男。本願寺に遊学。1511年(永正8年)2月17日死去。66歳。 | |
11 | 巧周 | 1463-1523 | 了順?英範。了周の弟。巧観の次男。1523年(大永3年)2月10日死去。61歳。 | |
12 | 了恵 | 1477-1541 | 了忠?応正。了周の次男。1541年(天文10年)5月6日死去。65歳。 | |
13 | 周円 | 1520-1561 | 正観。1561年(永禄4年)9月28日、川中島合戦の兵火で焼死。42歳。 | |
14 | 了性 | 1536-1595 | 円応。小市村ついで高井郡別府に移転。1567年(永禄10年)9月、上杉謙信の招きで越後の春日山城下町に移転。1595年(文禄4年)9月1日死去。60歳。 | |
15 | 善芸 | 1559-1647 | 従性。越後福島城下に移転。1610年(慶長15年)2月、福島城下町を高田に町ごと移転に伴い移転。1647年(正保4年)8月28日死去。89歳。 | |
16 | 教善 | 1588-1664 | 寿観。正室は東本願寺教如の娘。教如の猶子。1664年(寛文4年)1月9日死去。77歳。 | |
17 | 宣性 | 1617-1687 | 従観。教善の子。東本願寺宣如の猶子。1667年(寛文7年)5月18日、隠居を命じられ柏崎玄瑞寺に移る(真宗年表)。1687年(貞享4年)1月15日死去。71歳。 | |
18 | 琢性 | 1652-1689 | 瑛昭。東本願寺琢如の猶子。1689年(元禄2年)7月13日死去。38歳。 | |
19 | 一周 | 1684-1755 | 海観、性観、周覚。東本願寺から末寺を剥奪される。1755年(宝暦5年)12月18日死去。72歳。 | |
20 | 真観 | 1718-1738 | 性善。性芸とも。一周の子。1738年(元文3年)11月21日、東本願寺で自殺。21歳。善性以来の家系が断絶。 | |
21 | 乗善 | 1756-1807 | 遍観。盛岡・本誓寺から入る。1807年(文化4年)4月11日死去。52歳。 | |
22 | 乗周 | 1782-1821 | 遍芸。乗善の子。1821年(文政4年)11月9日死去。40歳。 | |
除歴 | 真諦 | 1741-1742 | 性栄。東本願寺啄如の曽孫。1741年(寛保1年)就任、1742年(寛保2年)退任。 | |
除歴 | 真勝 | 1745-1747 | 性珍。出口光善寺一玄の次男。1745年(延享2年)就任。1747年(延享4年)退任。 | |
23 | 達英 | 1815-1856 | 朗十。本誓寺から入る。1856年(安政3年)6月18日死去。42歳。 | |
24 | 稲田勝芸 | 1843-1892 | 厳正。達英の子。独立運動を行う。1892年(明治25年)8月23日死去。50歳。 | |
25 | 稲田英昌 | 1890-1960 | 英昌円周。1960年(昭和35年)2月16日死去。71歳。 | |
26 | 稲田善昭 |
資料
古典籍
史料集
- 1961 『高田市文化財調査報告書3浄興寺』
- 『浄興寺史料目録』
- 『重要文化財浄興寺本堂保存修理工事報告書』
- 長野県立歴史館『信濃史料』データベース[3]
文献
- 1665「本誓寺文書、浄興寺文書より見た石山合戦について」
- 1914『高田市史』[4]
- 須田篤1998「近世真宗教団における本山の条件ー越後高田浄興寺を中心として」
- 松田愼也・木村伸1998「近世中期真宗中本山の運営組織ー越後浄興寺台所日記の分析
- 川村則子2001「新潟県 重要文化財浄興寺本堂」
- 青木弘治2002「特集 「歴史的な木構造の修理と構造補強」国際シンポジウムに参加してー浄興寺本堂の事例発表の報告」
- 青木弘治2002「修復トピックス 重要文化財浄興寺本堂の復原と構造補強について」
- 青木弘治2003「現場レポート 新潟県 重要文化財浄興寺本堂--九年間の計画推移と作業の流れ」
- 2004『浄興寺ー歓喜踊躍山』
- 2004『悠久なる御堂ー平成大修理竣工記念』
- 森岡清美1969「真宗浄興寺派の成立」
- 森岡清美1973「既成仏教系一小教団独立の心意と理論-真宗浄興寺派の成立過程」