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豊前・蒲生八幡宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(ページの作成:「'''蒲生八幡宮'''は、福岡県北九州市小倉南区にある八幡信仰の神社。県社。 Category:福岡県」) |
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- | '''蒲生八幡宮''' | + | '''蒲生八幡宮'''(かもう・はちまんぐう)は、福岡県北九州市小倉南区蒲生(豊前国企救郡)にある[[八幡信仰]]の神社。祭神は応神天皇・神功皇后・宗像三女神・大山祇命・細川幽斎・細川忠興ほか4柱。[[県社]]。本殿は豊前国地域で現存最古の建築。蒲生八幡神社。規矩八幡宮。企救八幡宮。高浜八幡宮。 |
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+ | 虹山(巣山)に宗像三女神が出現。紫の池に多紀理比売命を祀り、虹山の頂上に多岐都比売命を祀り、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。このうち、虹山山頂の神社は南香媛神(みなかひめのかみ)の社と呼ばれたが、その後、応神天皇と神功皇后を合祀して蒲生八幡宮と称した。多紀理比売命の社は中河原八幡宮、市寸島比売命の社は厳島神社と称した。 | ||
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+ | 壇ノ浦の戦いで三種の神器が安徳天皇と共に沈んだ後、源頼朝は高浜浦の漁師の岩松与三に神器探索を命じた。岩松は蒲生八幡宮に祈願した後、海に入り、神鏡と勾玉を発見した。源頼朝は岩松に企救郡をまるごと与えるが、岩松はこの土地を蒲生八幡宮に寄進したという。 | ||
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+ | 虹山城主規矩氏の崇敬を得て、応永年間には規矩親忠が社殿を造営。戦国時代には小倉城主小野田種尚が崇敬し、1522年(大永2年)神領を寄進した。天正年間、大友宗麟の兵火で焼失。この時、岩松与三の子孫の高浜の岩松弥兵衛(三郎兵衛)が高浜に遷座させて再建。現在の小倉井筒屋(福岡県北九州市小倉北区船場町1-1)のあたりという。規矩八幡宮(企救八幡宮)、高浜八幡宮と称した。小倉城主高橋鑑種が社殿を造営した。1587年(天正15年)、毛利勝信が小倉城主となり、神領20石を寄進。1602年(慶長7年)小倉藩主細川忠興が小倉城築城にともない、旧地に近い、現在の中島山に遷座し、社殿を造営。再び蒲生八幡宮と号した。1632年(寛永9年)に小倉藩に入国した小笠原家も篤く崇敬した。 | ||
+ | 大宮司家として福岡家と高山家があったが福岡家は退転した。 | ||
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+ | 1867年(慶応3年)8月5日、佐野経彦(のち[[神理教]]教祖)らと境内に師の西田直養(1793-1865)を祭る[[幸彦社]]を創建。 | ||
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+ | 1873年(明治6年)7月9日、郷社に列格。 | ||
+ | 1923年(大正12年)8月8日、県社に昇格した。9月13日、神饌幣帛料供進神社に指定された。 | ||
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+ | 1880年(明治13年)6月、[[豊前・長岡神社]](祭神は細川幽斎・細川忠興)などを合祀したとみられる。 | ||
+ | 1909年(明治42年)4月、蒲生の貴布禰神社を、1910年(明治43年)4月、字古屋の貴布禰神社を合祀した。 | ||
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+ | (由緒書、日本歴史地名大系、神社明細帳、1931企救郡誌) | ||
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2022年1月30日 (日) 時点における版
蒲生八幡宮(かもう・はちまんぐう)は、福岡県北九州市小倉南区蒲生(豊前国企救郡)にある八幡信仰の神社。祭神は応神天皇・神功皇后・宗像三女神・大山祇命・細川幽斎・細川忠興ほか4柱。県社。本殿は豊前国地域で現存最古の建築。蒲生八幡神社。規矩八幡宮。企救八幡宮。高浜八幡宮。
虹山(巣山)に宗像三女神が出現。紫の池に多紀理比売命を祀り、虹山の頂上に多岐都比売命を祀り、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。このうち、虹山山頂の神社は南香媛神(みなかひめのかみ)の社と呼ばれたが、その後、応神天皇と神功皇后を合祀して蒲生八幡宮と称した。多紀理比売命の社は中河原八幡宮、市寸島比売命の社は厳島神社と称した。
壇ノ浦の戦いで三種の神器が安徳天皇と共に沈んだ後、源頼朝は高浜浦の漁師の岩松与三に神器探索を命じた。岩松は蒲生八幡宮に祈願した後、海に入り、神鏡と勾玉を発見した。源頼朝は岩松に企救郡をまるごと与えるが、岩松はこの土地を蒲生八幡宮に寄進したという。
虹山城主規矩氏の崇敬を得て、応永年間には規矩親忠が社殿を造営。戦国時代には小倉城主小野田種尚が崇敬し、1522年(大永2年)神領を寄進した。天正年間、大友宗麟の兵火で焼失。この時、岩松与三の子孫の高浜の岩松弥兵衛(三郎兵衛)が高浜に遷座させて再建。現在の小倉井筒屋(福岡県北九州市小倉北区船場町1-1)のあたりという。規矩八幡宮(企救八幡宮)、高浜八幡宮と称した。小倉城主高橋鑑種が社殿を造営した。1587年(天正15年)、毛利勝信が小倉城主となり、神領20石を寄進。1602年(慶長7年)小倉藩主細川忠興が小倉城築城にともない、旧地に近い、現在の中島山に遷座し、社殿を造営。再び蒲生八幡宮と号した。1632年(寛永9年)に小倉藩に入国した小笠原家も篤く崇敬した。 大宮司家として福岡家と高山家があったが福岡家は退転した。
1867年(慶応3年)8月5日、佐野経彦(のち神理教教祖)らと境内に師の西田直養(1793-1865)を祭る幸彦社を創建。
1873年(明治6年)7月9日、郷社に列格。 1923年(大正12年)8月8日、県社に昇格した。9月13日、神饌幣帛料供進神社に指定された。
1880年(明治13年)6月、豊前・長岡神社(祭神は細川幽斎・細川忠興)などを合祀したとみられる。
1909年(明治42年)4月、蒲生の貴布禰神社を、1910年(明治43年)4月、字古屋の貴布禰神社を合祀した。
(由緒書、日本歴史地名大系、神社明細帳、1931企救郡誌)