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忌宮神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2022年8月21日 (日) 時点における版
忌宮神社(いみのみや・じんじゃ)は山口県下関市長府宮の内町(長門国豊浦郡)にある神社。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。仲哀天皇行宮の豊浦宮旧跡という。八幡信仰との関係も深い。官社。長門国二宮。国幣小社神社本庁別表神社。
目次 |
歴史
- 仲哀天皇2年6月:仲哀天皇、九州の熊襲征討のため、長門国に入る(日本書紀)。
- 仲哀天皇2年7月5日:神功皇后、豊浦津に滞在した時、海中から如意珠を得た(日本書紀)。
- 仲哀天皇2年9月:仲哀天皇、皇宮を建て穴門豊浦宮と称す(日本書紀)。
- 仲哀天皇9年2月:仲哀天皇、筑紫橿日宮で崩御。豊浦宮の近くに殯宮を設けた(日本書紀)。
- 神功皇后1年2月:新羅から凱旋した神功皇后、穴門豊浦宮で仲哀天皇の遺骸を収めて大和に向かった(日本書紀)。社伝によると、この時、豊浦宮に仲哀天皇の神霊を奉斎したのが忌宮神社の起源だという。
- 神功皇后2年11月:仲哀天皇、河内の長野陵に埋葬。
- 聖武天皇代:神功皇后を奉斎して忌宮と称し、応神天皇を祀り豊明宮と称した。
- 873年(貞観15年)12月15日:長門国「忌宮神」を従五位下から従五位上に昇叙。(三代実録)
- 927年(延長5年):『延喜式』で小社
- 1309年(延慶2年):焼失。
- 1326年(嘉暦1年)12月20日:幕府、長門警固所領になっていた社領を復帰させるように命じる
- 1328年(嘉暦3年):火災。
- 1336年(延元1年/建武3年)4月:足利尊氏、戦勝祈願(梅松論)。
- 1337年(延元2年/建武4年)11月15日:足利尊氏、法楽2首を献詠した。「長門国神宮皇后之社壇」とある。
- 1351年(正平6年/観応2年):綸旨で極楽寺(現日頼寺)を仲哀天皇聖跡であるから祈願所とする。
- 南北朝時代:今川貞世が参詣。『道ゆきぶり』に「松原をはるかに行過て長門国府になりぬ」「このさと一むらすぎて神功皇后宮の御社の前に出たり。御やしろは南に向たり」とある。神功皇后の神社と認識されていたことが分かる。
- 1581年(天正9年):「二宮御神事御能法度」
- 1634年(寛永11年)10月17日:焼失。
- 1636年(寛永13年):この時点で85石。
- 1671年(寛文11年):仮殿造営。
- 1868年(明治1年):境内に豊功神社を創建。
- 1876年(明治9年):焼失。
- 1902年(明治35年):日頼寺の殯斂地、宮内省の所管となる(国史大辞典)
- 1916年(大正5年)12月:県社から国幣小社に列格
- 1917年(大正6年):豊功神社、松崎八幡宮に遷座合祀して豊功神社となる。
- 1972年(昭和47年):惣社宮、忌宮神社に合祀。
- 1980年(昭和55年):惣社宮、現在地に遷座。
境内
格式 | 神社名 | 祭神 | 所在地 | 概要 |
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本社 | 忌宮神社 | 仲哀天皇・神功皇后・応神天皇 | 本社 | 現在の社殿は1877年(明治10年)6月に造営し、改修したもの。 |
別宮 | 若宮社 | 仁徳天皇 | 本社西隣 | |
別宮 | 高良社 | 地主大神・武内宿禰 | 本社東隣 | |
摂社 | 八坂神社 | 八坂神社、春日神社、日吉神社、三島神社、印内神社、大歳神社2社、恵比寿神社、人丸神社、貴船神社2社、塩竈神社、河内神社ほか | 境内西側 | 明治初年に秋葉神社など合祀。さらに1904年(明治37年)4月から1911年(明治44年)2月にかけて周辺の神社が合祀された。社殿は野久留米の塩竈神社の旧社殿。 |
摂社 | 惣社宮 | 大己貴神・天神地祇 | 山口県下関市長府惣社町 | 長門国総社。守護館(現・長府毛利邸)付近に祀られていたが、1965年(昭和40年)代に忌宮神社に一時合祀された。1980年(昭和55年)現在地に遷座。 |
摂社 | 守宮司神社 | 応神天皇 | 山口県下関市長府惣社町 | 創建由緒など不詳。御斎神事に関わりの深い神社。 |
末社 | 荒熊稲荷神社 | 宇迦之御魂大神・厳島社 | 境内東側 | 文化文政年間、毛利元義が参勤交代で江戸から帰る途中、伏見稲荷大社から分霊を奉じて祀ったのが始まり。1848年(嘉永1年)現在地に遷座した。1990年(平成2年)11月、社殿造営。奉納相撲が行われている。厳島社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)を配祀。 |
その他 | 逆松 | 境内東側 | 神功皇后の手植えの松という。神功皇后が三韓出兵に際して七日七夜神々に祈願し、戦勝を占って松の若木を逆さまにして植えたところ繁り栄えた。 | |
その他 | 鬼石 | 広庭 | 日本に攻めてきた塵輪という名の新羅の武将を討ち取り、首を埋めてその上に石を置いたもの。塵輪の顔が鬼に似ていたため鬼石と呼んだという。歓喜の余り、塵輪の遺体のまわりを踊り廻ったのが数方庭行事の起源という。 | |
その他 | 宿禰公孫樹 | 広庭 | 武内宿禰の手植えのイチョウという。 | |
その他 | 豊浦皇居跡碑 | 境内西側 | ||
その他 | 満干島 | 山口県下関市長府沖 | 長府沖合に浮かぶ二つの島。満珠島と干珠島。忌宮神社の飛地境内。神功皇后が豊浦津に泊まった時に満珠・干珠の如意の珠を得た場所、あるいは新羅凱旋の時に如意の珠を収めた場所という。如意宝珠信仰。神社の古地図では陸に近い島を「満珠島」、遠い島を「干珠島」と呼ぶが、文化財指定では呼称が逆になっている。 | |
関連 | 仲哀天皇殯斂地 | 仲哀天皇 | 山口県下関市長府侍町 | 宮内庁管理。 |
組織
大宮司
武内家(竹内、竹中とも)が世襲。名前からして武内宿禰の末裔か。
宮司
- 吉村清享(1873-1929)<1915-1918>:山口県出身の神職。1915年(大正4年)12月22日から1918年(大正7年)10月28日まで忌宮神社宮司。(略歴は長田神社#組織を参照)
- 礒部稜威雄
- 鳴瀬嘉貞
- 宮崎義敬
- 松島浅之助
- 磯部正明
豊功神社から見た満干島 |
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