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野田神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''野田神社''' | + | '''野田神社'''(のだ・じんじゃ)は、山口県山口市にある、維新功績者とされる13代藩主'''毛利敬親'''(たかちか)(1819-1871)を祀る[[霊社]]。 |
[[豊栄神社]]境内には[[毛利本家祖霊社]]が祀られていたが、[[毛利家]]の東京移転により、祖霊社も東京に遷座した。1873年(明治6年)、旧祖霊社社殿に毛利敬親を祀り、境内別殿として'''中正神社'''を創建した。名称は敬親の諡号である「中正公」に由来する。1876年(明治9年)10月には中正神社を野田神社と改称、[[県社]]となる。(以上、森岡2003) | [[豊栄神社]]境内には[[毛利本家祖霊社]]が祀られていたが、[[毛利家]]の東京移転により、祖霊社も東京に遷座した。1873年(明治6年)、旧祖霊社社殿に毛利敬親を祀り、境内別殿として'''中正神社'''を創建した。名称は敬親の諡号である「中正公」に由来する。1876年(明治9年)10月には中正神社を野田神社と改称、[[県社]]となる。(以上、森岡2003) | ||
- | 1886年(明治19年)、野田神社は現在地に遷座。1898年(明治31年)、'''毛利元徳''' | + | 1886年(明治19年)、野田神社は現在地に遷座。1898年(明治31年)、'''毛利元徳'''(もとのり)を野田神社に合祀。1915年(大正4年)、野田神社、別格官幣社となる。同殿とすることに差し支えがあったのか、1916年(大正5年)、野田神社摂社'''芳宜園神社'''を創建し、本殿の毛利元徳を遷座した。しかし、毛利元徳四十年祭に当たって、その功績が認められて、再び1936年(昭和11年)、芳宜園神社を野田神社に合祀して本殿に祀られた。 |
現在、社殿むかって左に仮殿があるが、芳宜園神社旧殿だろうか。 | 現在、社殿むかって左に仮殿があるが、芳宜園神社旧殿だろうか。 |
2016年9月20日 (火) 時点における版
野田神社 のだ じんじゃ | |
概要 | 明治維新の功臣を奉斎する神社。 |
奉斎 | 毛利敬親 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 山口県山口市天花1-1-2 |
所在地(旧国郡) | |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 別格官幣社・別表神社 |
関連記事 | 領主奉斎神社・毛利家祭祀・維新期英雄奉斎神社 |
目次 |
概要
野田神社(のだ・じんじゃ)は、山口県山口市にある、維新功績者とされる13代藩主毛利敬親(たかちか)(1819-1871)を祀る霊社。
豊栄神社境内には毛利本家祖霊社が祀られていたが、毛利家の東京移転により、祖霊社も東京に遷座した。1873年(明治6年)、旧祖霊社社殿に毛利敬親を祀り、境内別殿として中正神社を創建した。名称は敬親の諡号である「中正公」に由来する。1876年(明治9年)10月には中正神社を野田神社と改称、県社となる。(以上、森岡2003)
1886年(明治19年)、野田神社は現在地に遷座。1898年(明治31年)、毛利元徳(もとのり)を野田神社に合祀。1915年(大正4年)、野田神社、別格官幣社となる。同殿とすることに差し支えがあったのか、1916年(大正5年)、野田神社摂社芳宜園神社を創建し、本殿の毛利元徳を遷座した。しかし、毛利元徳四十年祭に当たって、その功績が認められて、再び1936年(昭和11年)、芳宜園神社を野田神社に合祀して本殿に祀られた。
現在、社殿むかって左に仮殿があるが、芳宜園神社旧殿だろうか。
歴史
境内
画像
参考文献
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』