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大坂・願泉寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2021年11月20日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
願泉寺(がんせんじ)は大阪府大阪市浪速区大国にある浄土真宗寺院。浄土真宗本願寺派。山号は日下山。四天王寺関連旧跡。
歴史
603年(推古11年)、小野妹子の子の多嘉丸(多佳麿)が出家して永証と称して創建。聖徳太子の物部守屋征討および四天王寺建立に貢献したという。のち天台宗寺院となり木津山無量寿寺と称したが27世浄教(乗教)が蓮如に帰依。応仁年間に兵火で焼失。1507年(永正4年)現在地に復興した。
教龍は本願寺10世証如に近侍し、『天文日記』に「木津教竜」などとして登場する。1582年(天正10年)兵火で焼失。1597年(慶長2年)復興。石山合戦にも参加したがこの頃はまだ寺号はなかったらしい。1597年(慶長2年)の史料に初めて「願泉寺」と現れる。復興と同時に寺号を許可されたようだ。1625年(寛永2年)焼失。1714年(正徳4年)、31世定龍が再建。1724年(享保9年)に火災に見舞われた北御堂の本尊が一時遷座した。1945年(昭和20年)空襲で焼失。
歴代住職は四天王寺の天王寺楽所の楽人でもあり、西本願寺に所属してからも続いた。1884年(明治17年)に住職小野経龍(小野樟蔭)(1871-1943)が創設して以来、大阪雅亮会の事務所が置かれている。小野功龍(1936-2014)も奏者・音楽史学者だった。
また定龍の頃から茶人としても活動。伊達政宗が寄進した茶室泰慶堂があった。36世の降龍(1760-1858)は茶道に専念し、寺を弟の昇龍に譲り、木津宗詮として活躍。武者小路千家流木津家の祖となった。折口信夫の墓がある。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)
組織
歴代住職
- 1永証():小野妹子の八男という。
- 22秀意():
- 27浄教():蓮如に帰依して乗教と改名。
- 28乗空():1507年(永正4年)現在地に再建。実如から阿弥陀如来画像
- 29
- 30教龍():
- 31定龍():1582年(天正10年)兵火で焼失。武将として活躍。本願寺常住衆となる。1640年(寛永17年)死去。
- 32
- 33
- 34
- 35時龍():
- 36降龍(1760-1858):木津宗詮。卜深庵初代。1760年(宝暦10年)生。1799年(寛政11年)聖護院宮が滞在。松平不昧公に近侍。茶人となり、武者小路千家に師事。紀伊徳川家に仕え大徳寺418世の宙宝宗宇に参禅し松斎と称した。1858年(安政5年)死去。
- 37昇龍():院家に列す。
- 38
- 39
- 40
- 41小野経龍(1871-1943):大阪雅亮会を創設。小野樟蔭。
- 42小野摂龍():初代雅亮会楽頭。
- 43小野功龍(1936-2014):二代雅亮会楽頭
- 44小野真龍():