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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

大坂・願泉寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年12月16日 (日)

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願泉寺(がんせんじ)は大阪府大阪市浪速区大国にある浄土真宗寺院。浄土真宗本願寺派。山号は日下山。四天王寺関連旧跡

歴史

603年(推古11年)、小野妹子の子の多嘉丸(多佳麿)が出家して永証と称して創建。聖徳太子物部守屋征討および四天王寺建立に貢献したという。のち天台宗寺院となり木津山無量寿寺と称したが27世浄教(乗教)が蓮如に帰依。応仁年間に兵火で焼失。1507年(永正4年)現在地に復興した。

教龍は本願寺10世証如に近侍し、『天文日記』に「木津教竜」などとして登場する。1582年(天正10年)兵火で焼失。1597年(慶長2年)復興。石山合戦にも参加したがこの頃はまだ寺号はなかったらしい。1597年(慶長2年)の史料に初めて「願泉寺」と現れる。復興と同時に寺号を許可されたようだ。1625年(寛永2年)焼失。1714年(正徳4年)、31世定龍が再建。1724年(享保9年)に火災に見舞われた北御堂の本尊が一時遷座した。1945年(昭和20年)空襲で焼失。

歴代住職は四天王寺天王寺楽所の楽人でもあり、西本願寺に所属してからも続いた。1884年(明治17年)に住職小野経龍(小野樟蔭)(1871-1943)が創設して以来、大阪雅亮会の事務所が置かれている。小野功龍(1936-2014)も奏者・音楽史学者だった。

また定龍の頃から茶人としても活動。伊達政宗が寄進した茶室泰慶堂があった。36世の降龍(1760-1858)は茶道に専念し、寺を弟の昇龍に譲り、木津宗詮として活躍。武者小路千家流木津家の祖となった。折口信夫の墓がある。

(日本歴史地名大系、国史大辞典)

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