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観心寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2024年11月9日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある、真言宗寺院。定額寺。南朝にゆかり深く、後村上天皇の行在所となった。後村上天皇陵がある。本尊は如意輪観音。楠木正成旧跡。高野山真言宗。 京都の禅林寺と深い関係を持った。旧称は雲心寺。
目次 |
歴史
- 701年(大宝1年):役小角が創建し雲心寺と称した。
- 808年(大同3年):空海が訪れて北斗七星を勧請。
- 815年(弘仁6年):如意輪観音を刻んで観心寺と称した。
- 827年(天長4年):実恵の命で弟子の真紹が伽藍を造営した。
- 843年:河内国守をもって観心寺俗別当とすることを定める
- 869年(貞観11年):定額寺に列格
- 883年(元慶7年)9月15日:『観心寺縁起資財帳』編纂。
- 1333年:後醍醐天皇、「観心寺地頭職」を観心寺に寄進
- 1334年:楠木正成が奉行となり金堂の外陣を再建。さらに三重塔を建てようとしたが果たせず「建掛塔」として残された
- 1336年:楠木正成戦死。首塚が築かれた。
- 1340年:後村上天皇、河内国小高瀬庄領家職を寄進
- 1344年:訶梨帝母天堂が焼失。同年再建。
- 1356年6月1日:実恵に大僧正を贈られるように奏上。
- 1357年5月:後村上天皇、行幸
- 1357年6月7日:後村上天皇、実恵に僧正を追贈
- 1359年12月23日:後村上天皇、天野山金剛寺より移って観心寺総持院が行宮となる
- 1360年1月13日:後村上天皇、東寺仏舎利を観心寺に奉納
- 1360年5月8日:後村上天皇、金剛山麓の観音寺に移る
- 1368年3月11日:後村上天皇、崩御。遺詔により境内に埋葬
- 1378年:賢耀という僧侶が参拝し、『観心寺参詣諸堂巡礼記』を記す
- 1396年:観心寺集会評定事書。集会制度の初見
- 1409年:管領畠山満家が寺領寄進
- 1439年頃:現在の金堂、再建
- 1505年:「山伏道」は禁止されているが下僧の中に「公方の権威」を背景に入峰しようとしたものがいたという。実際にはさかんに行われていたのだろう。
- 豊臣秀吉、寺領を寄進
- 豊臣秀頼、伽藍再建
- 1669年頃:観心寺伽藍寺役僧坊法式控、成立
- 天保年間:有栖川宮家の祈願所となる。
伽藍
- 金堂:
- 講堂:恩賜講堂。昭和大礼で使われた建物を移築した。
- 建掛塔:楠木正成が三重塔を立てようとして途中で終わったと伝える。
- 大師御影堂:
- 実恵御影堂:開山堂
- 阿弥陀堂:
- 訶梨帝母天堂:
- 西宮:
- 東宮:
- 弁天堂:
- 役行者堂:本尊は役小角。
- 灌頂院:
- 後村上天皇陵:元は法華堂があったか。
- 新待賢門院墓:コウボ坂陵墓参考地
- 楠木正成首塚:
- 楠木正行首塚:
- 空海礼拝石:
- 星塚:空海が勧請した北斗七星を祀る。七つある。
- 檜尾塚陵墓参考地
子院
- 総持院:後村上天皇行在所。廃絶。跡地に石碑が建つ。
- 中院:楠木氏の菩提寺。現存。楠木正成が幼少の時ここで学んだという。
- 槙本院:現存。本坊。
- 阿弥陀院
組織
住職
- 「石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第」[1]
写真
資料
- 『観心寺文書』[2]、河内長野市史4史料編1[3]
- 『河内長野市史6史料編3』[4]
- 『観心寺参詣諸堂巡礼記』[5]
- 『観心寺参詣諸堂巡礼記解説』[6]
- 『観心寺縁起実録帳』:群書類従[7]、[8]、[9]
- 「観心寺楠公首墓碑」[10]
- 『観心寺阿弥陀仏造像記』[11]
- 『観心寺勘録縁起資材帳』[12]
- 『観心寺文書』[13]
- 「観心寺御陵図」[14]
- 「観心寺境内図」[15]
- 『観心寺要録』
- 『河内長野市史1下・本文編古代・中世』[18]
- 『河内長野市史10別編2建築・美術工芸』[19]
- 玉島実雅1927『楠公と観心寺』[20]
- 細川亀市1933「観心寺に於ける僧侶集会と寺院」[21]
- 宇野良雄1936「観心寺の七星塚」[22]
- 富賀鹿蔵編1936『観心寺史要』[23]
- 1937『大楠公恩師滝覚御房史蹟』[24]
- 鈴木潔1937『楠氏と松尾』[25]
- 川瀬一馬1939『新発見の資料に拠る新待賢門院御陵墓攷』[26]
- 足立康1944「観心寺本尊と観心寺縁起実録帳」[27]
- 守山聖真1965「観心寺と文観」[28]
- 水郡庸皓1966「天誅組義挙と観心寺」[29]
- 1981『古寺巡礼西国2観心寺』[30]
- 川尻秋生1987「観心寺縁起資材帳について」[31]
- 上野勝久1995「観心寺と禅林寺」[32]
- 清田義英1996「「衆議」から「集議」へ河内の古刹観心寺の集会」[33]
- 大石雅章2015「中世後期の地域寺院である観心寺の支配」[34]