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徳光教系教団関連旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
徳光教信仰 |
目次 |
概要
徳光教信仰は金田徳光を創始者とする信仰系譜である。パーフェクトリバティー教団や自然社などの教団がある。
歴史
創始
金田徳光(1863(文久3)-1919(大正8))は河内八尾に生まれ、堺の鉄工所に奉公していたが、主人の感化により弘法大師信仰を持つようになり、一人で犬鳴山や高野山で修行するようになった。信仰の念がやみがたく、高野山に登ること、百数十回となり、ついに神宣法を授かり、信徒の苦痛を教主が代わりに引き受けるという御振替法を創始し、教訓十八ヵ条を定めたという。このように金田徳光は、もともと真言宗の行者であったが、独自の境地に達した結果、教派神道に活躍の場を求めたのだろう。
徳光は、御嶽教に所属し、1911年(明治44年)には大教正に登り詰めた。この年、阿倍野の常磐通りにて教えを説き始めた。翌年、信者の勧めにより、一教を立てることとし、常磐通りの自宅を教会所として「御嶽教徳光大教会」を設立した。山内良千ら思想運動を展開しようとするインテリの幹部に支えられて、教勢は伸び、1913年(大正2年)、阿倍野の中道に教会所を新築し、移転した。
1918年(大正7年)、御嶽教から神道本局に所属を替え、神道徳光大教会と改称した(御嶽教徳光大教会は「神光大教会」と改称して、存続したともいう。)。
金田徳光の死と教団分立
1919年(大正8年)、金田徳光は死去し、天人海瑠璃ヒコ命と諡された。徳光教の活動は教主個人のカリスマ性に依存する性質を持っている。そのため、誰が後継者になるかは大きな焦点であった。徳光の死は、教団分立といえる事態を引き起こす結果となった。
近代の新宗教にしばしば見られるように、金田徳光の霊能カリスマ性とそれを支える思想運動を行うインテリ幹部たちの二つの中心があった。しかし、金田徳光の死により、二つの軸の違いが顕在化してしまった。 教団内は前者を支持する教祖派と後者を支持する参教派に別れたが、参教派が主導権を握り、山内良千(山内徳誠)が教会長となった。山内の死後、石井徳雲が後継者となった。
一方、教祖派の元黄檗宗僧侶の御木徳一はプライベートな問題で、教団を追放されていたが、徳光からの言葉「ひもろぎを祭っていれば新たに三箇条の神訓を表すものが登場し、教えは完成される」を信じて、「ひもろぎ」を徳光の没地に祭り、一人で活動していた。1923年(大正12年)から1926年(昭和1年)にかけて、彼自身に三つの教えが下った。これにより御木徳一は自らが正統な後継者であり、完成者であると位置付けて、活動を始めた。しかし、参教派が主導権を握った本家には戻らず、新たに教団を組織した。
御木徳一は、独自に御嶽教に所属して、1924年(大正13年)、伊勢神宮参拝を契機に、天王寺で「御嶽教徳光大教会本部」設立を申請、1925年(大正14年)設立が許可された。 御嶽教徳光大教会本部は御木徳一のカリスマ性と巧みな布教手段によって、本家の徳光大教会よりも教勢を拡大した。無料の朝食付きの朝詣りの奨励は、信者獲得に有効な手段となったと言われている。1928年(昭和3年)、御嶽教との関係から、扶桑教に転属し、「扶桑教人道徳光教会」と改称した。天王寺から河内布施に本部を移した。さらに1931年(昭和6年)「扶桑教ひとのみち教団」と改称した。
石井徳雲が継承していた神道徳光大教会からは1939年(昭和14年)に神道本局所属の「あかつき教会」が分立したらしい。東京と茨城を拠点としているらしい。
ひとのみち事件
昭和前期、国家による宗教への統制が強くなっていくなかで、徳光教系のひとのみち教団も弾圧を受けた。有名な「ひとのみち事件」である。第二次大本事件の翌年、内部からの告発を機に、御木徳一らが強姦涜職罪で検挙され、1937年(昭和12年)、不敬罪で起訴された。徳一は裁判中の1938年(昭和13年)7月に死去した(諡号は「天水海日顕ヒコ命」)。1944年(昭和19年)10月、上告棄却となり、判決が確定した。御木徳近は唯一実刑判決となり、敗戦後に釈放されるまで拘留された。この1936年(昭和11年)の検挙のとき、捜査に関わった大阪府警特高課長杭迫軍二は、1935年(昭和10年)に京都府特高課長として大本弾圧(第二次大本事件)を指揮した人物でもあった。ひとのみち教団は、体制同調色の強い団体であったが、天照大神や教育勅語の解釈が当局と異質な点があり、教祖の神格化が著しいことが天皇権威の相対化を招く恐れがあるといった点が弾圧された原因と推測されている。この事件により、ひとのみち教団は壊滅した。
戦後の教団分立
戦後、釈放された御木徳近は、旧ひとのみち教団を継承し新たな教団を設立したが、中核的な教えを継承する一方で、戦後の社会に適応した大胆な変革を行った。名称を「パーフェクトリバティ教団」と命名し、人訓二十一箇条をPL処世訓二十一カ条と改名した。その傾向は建築にも表れて、伝統的建築の外観を廃し、モダンな外観の建築を取り入れた。1946年(昭和21年)9月29日、鳥栖にてPL教団を設立した。1949年(昭和24年)、清水に本部を移した。清水仮本殿は時代に合わせた洋風の建築であった。1955年(昭和30年)、富田林を永遠の聖地として移転した。
一方で、旧ひとのみち教団の幹部の一部はPL教団に同調せず、新たな道を模索した。橋本郷見、丸山敏雄、上広哲彦がそれである。
橋本郷見は、旧ひとのみち教団の幹部であったが、御木徳近の流れに加わらず、徳光教の本家ともいえる神道大教所属の神道徳光大教会に接近し、同教会を神道大教傘下から独立させ、1946年(昭和21年)「神道徳光教会本部」を設立した。1947年(昭和22年)「自然社中央教堂」と改称し、さらに1949年(昭和24年)「自然社」と改称した。金田徳光縁の高野山の近くに聖地を造成した。
丸山敏雄、上広哲彦は、ひとのみち事件を経験して、宗教性が排他性につながるという考えから、宗教性を脱した修養団体を設立した。丸山敏雄は社団法人倫理研究所を設立し、上広哲彦は社団法人実践倫理宏正会を設立した。しかしながら、実践訓戒を掲げたり、早朝集会(朝起会)を行ったりする点は、旧ひとのみち教団の活動を受け継いでいると見られている。
ひとのみち教団系の人物が活発な活動を見せ、そのなかに神道徳光大教会も巻き込まれたかたちとなった。しかし、一方で神道徳光大教会の幹部であった生駒徳文(徳真?)は、橋本郷見が自然社を設立すると、同教会から離れ、三島支部を独立させて1948年(昭和23年)「徳光教本部」を設立。1949年(昭和24年)「徳光教」と改称した。
近年、パーフェクトリバティ教団においても後継者問題が起き、後継者を変更された御木徳日止が「人道教団」を設立した。
信仰
系譜
組織
- 徳光大教会:金田徳光が組織した教会。御嶽教に所属し、のち神道本局(神道大教)に所属。戦後、自然社に改組。
- あかつき教会:大森徳馬により昭和前期に徳光大教会から分立。神道大教所属。
- 徳光教:戦後、生駒徳文(徳真)により徳光大教会から分立。
- 自然社:戦後、橋本郷見により徳光大教会を改組して設立。
- ひとのみち教団:御木徳一が設立。御嶽教に所属し、のち扶桑教に所属。
- パーフェクトリバティー教団:御木徳一の子、御木徳近がひとのみち教団を復興させて設立。
- 人道教団:御木徳日止がパーフェクトリバティー教団より分立。
- 社団法人倫理研究所:戦後、丸山敏雄が設立。
- 社団法人実践倫理宏正会:戦後、上広哲彦が設立。
古典籍
画像
参考文献
- 『新宗教事典』
- 『新宗教教団・人物事典』
- 御木徳近記念館ウェブサイト[1]