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札幌護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年5月31日 (金)

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札幌護国神社・本社-11.jpg

札幌護国神社(さっぽろ・ごこくじんじゃ)は、北海道札幌市中央区南15条西にある招魂社。祭神は北海道の石狩・日高・空知・後志・胆振支庁の戦没者など。私祭招魂社指定護国神社。道内には他の指定護国神社として北海道護国神社函館護国神社がある。道庁所在地にあるが、北海道を代表する護国神社は札幌護国神社ではなく、旭川市の北海道護国神社。西南戦争の忠魂碑を起源としている。護国神社様式の社殿で、千鳥破風が二重につき、拝殿左右に屋根があるなど、ほかの護国神社より複雑な姿をみせている。札幌招魂社。占領中は札幌彰徳神社と称した。北海道・樺太の神社

目次

祭神

2万5550柱(札幌護国神社ウェブサイト、2020年(令和2年)現在)。 殉職警察官、殉職消防官の霊を合祀も合祀。

過去のデータでは2万5211柱(『靖国神社百年史』)、2万5525柱(「全国護国神社一覧」、北海道神社庁ウェブサイト)

戦前の内訳[1][2]

  • 1939年(昭和14年)7月6日合祀者氏名[3]

歴史

  • 1878年(明治11年)7月6日:屯田兵の要望を入れて開拓使から上申[4]
  • 1878年(明治11年)7月21日:太政官許可[5]
  • 1879年(明治12年)2月20日:西南戦争で戦死した屯田兵を祀る「招魂碑」を北6条西7丁目の偕楽園前に建立。
  • 1896年(明治29年)7月:祭典主催を屯田兵司令官から札幌区有志に引き継ぐ[6]
  • 1900年(明治33年)5月22日:「札幌招魂碑保存会」設立。社団法人認可[7]
  • 1911年(明治44年)2月:中島公園に場所を移し、乃木希典揮毫による「忠魂碑」を建立。
  • 1921年(大正10年)12月1日:拝殿を造営。
  • 1922年(大正11年)7月1日:札幌招魂社創立許可。碑の前に拝殿のみを建てており、本殿はなかったらしい。神霊は札幌神社に奉斎し、例祭のたびに奉遷したという[8]
  • 1922年(大正11年)7月:皇太子時代の昭和天皇が建設予定地を視察[9]
  • 1932年(昭和7年)7月:「招魂社調」『神社協会雑誌』に「私祭札幌招魂社」とあり、官祭招魂社ではないが、内務省に私祭招魂社として公認されたものだったことが分かる。
  • 1933年(昭和8年)4月:札幌招魂社奉賛会が造営を発起[10]
  • 1933年(昭和8年)11月17日:社殿を造営し、神霊が札幌神社から奉遷し遷座した[11]
  • 1934年(昭和9年)7月5日:合祀祭[12]
  • 1939年(昭和14年)4月:指定護国神社の最初の34社の一つとなり、札幌護国神社と改称した。
  • 1946年(昭和21年)12月:(4月30日とも)札幌彰徳神社に改称。
  • 1959年(昭和34年)7月1日:札幌護国神社に復した。
  • 1968年(昭和43年)10月10日:不審火で焼失
  • 1970年(昭和45年)8月2日:再建、遷座祭が行われた。

(『日本歴史地名大系』ほか)

境内

  • 本社:護国神社様式
  • 多賀殿:祭神は伊邪那岐神伊邪那美神。1949年(昭和24年)9月創建。多賀大社から分霊した。さらに山鼻神社を合祀した。
  • 慰霊碑群:起源となった屯田兵招魂碑や忠魂碑もある。

鎮座地

鎮座地の変遷
鎮座地 所在地 沿革 現状
1 偕楽園
札幌招魂社・古写真・屯田兵招魂之碑2・1879年(明治12年).jpg札幌護国神社・屯田兵招魂碑・偕楽園跡地-02.jpeg
札幌市北区北6条西8 1879年(明治12年)2月20日に屯田兵招魂碑を建立。 大原簿記情報専門学校札幌校のあたり。跡地の近くに偕楽園緑地がある。
2 中島公園内
札幌招魂社・古写真・1911年(明治44年)皇太子殿下北海道行啓記念2.jpg札幌護国神社・屯田兵招魂碑・中島公園跡地-02.jpg
札幌市中央区中島公園1-5 1911年(明治44年)2月移転。1921年(大正10年)12月1日に拝殿を造営。1922年(大正11年)に札幌招魂社創立許可。 札幌市中島体育センターのあたり。
3 中島公園隣接地(現在)
札幌護国神社・古写真001.jpg札幌護国神社・本社-04.jpg
札幌市中央区南15条西5丁目1-3 1933年(昭和8年)11月17日に遷座。

画像

組織

歴代

  • 寺田密次郎()<>:受持神官。札幌神社宮司。のち平安神宮宮司。
  • 高松四郎()<>:1939年(昭和14年)4月1日、札幌護国神社社司[13]
  • 反橋隆信(?-1965)<>:船迫隆信。国学院大学卒。1918年(大正7年)札幌工芸学校教諭。1923年(大正12年)朝鮮京城公立高等女学校教諭。1927年(昭和2年)郡山公立高等女学校教諭。1929年(昭和4年)従七位。1932年(昭和7年)正七位。1933年(昭和8年)頃、札幌神社主典。1935年(昭和10年)頃、札幌招魂社の事務担当となる。1939年(昭和14年)4月1日、札幌護国神社社掌[14]。1965年(昭和40年)4月23日死去。
  • 反橋宏(?-2010)<>:2010年(平成22年)1月5日死去。84歳。
  • 反橋進()<>:
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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