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京都・円満寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年9月13日 (火)
円満寺は京都にあった融通念仏宗寺院。大念仏寺の里坊として、住職の滞在所としての役割と共に朝廷や公家社会に対応する窓口となった。住職はおらず、大念仏寺の役僧が留守居として派遣された。 明治初年に廃絶。山号は大祥山。(参考:同名寺院円満寺)
1702年12月22日、大通の創建。元禄年間には大通は紫衣、檀林設置、勧進帳院宣、「融通念仏宗」公称などの教団公認を進めていた時期であった。 当初は北野天満宮門前町の上七軒通の東端近くの北側(京都市上京区毘沙門町周辺)にあった。金山天王寺の西隣にあった。当時の真盛町に含まれる。 もともとここには愛染院(洛陽三十三観音の第30番)という真言宗無本寺があったが、1703年2月1日、当時の住職の春盛から大念仏寺が丁銀5貫目で買い取った。 2月6日に普請が始まったらしい。
1730年6月20日、「西陣焼け」の大火で焼失。 1735年頃、七本松下立売上ルの東側に移転。この地には水口弾正の屋敷があった。1736年1月25日に移転の届出を提出している。当時の町割りでは三番町に含まれる。現在の地福寺の北隣あたり(京都市上京区七番町周辺)にあった。 明治2年の地図には円満寺の名前があるが、明治17年の地図では記載がなく、この間に廃絶したと思われる。 痕跡はない。(高橋論文)
組織
留守居
- 慶覚()<1704->:
- 了通(-1724)<-1724>:
- 恵流()<1724->:
- 義猛()<1724->:
- 義関()<-1731->:看守
資料
- 「円満寺普請請文」
- 「大念仏寺記録」
- 「愛染院付属状等」
- 高橋大樹2015「近世京都における融通念佛宗寺院の展開ー北野圓満寺をめぐって」