ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

京都・方広寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?歴史)
8行: 8行:
[[file:Kokudo0150.jpg|thumb|300px|豊国神社(南)と方広寺(北)(国土地理院空中写真より)]]
[[file:Kokudo0150.jpg|thumb|300px|豊国神社(南)と方広寺(北)(国土地理院空中写真より)]]
[[file:Kokudo0149.jpg|thumb|300px|妙法院・豊臣秀吉墓・智積院・方広寺・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂(国土地理院空中写真より)]]
[[file:Kokudo0149.jpg|thumb|300px|妙法院・豊臣秀吉墓・智積院・方広寺・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂(国土地理院空中写真より)]]
-
1586年(天正14年)4月、豊臣秀吉は大仏造立を発願。
+
*1586年(天正14年)4月:豊臣秀吉は大仏造立を発願。まもなく着工したが、8月には中断。
-
まもなく着工したが、8月には中断。
+
*1588年(天正16年):再開。
-
1588年(天正16年)再開。
+
*1591年(天正19年)5月20日:立柱。この頃から木食応其が造営に関与。
-
1591年(天正19年)5月20日、立柱。
+
*1593年(文禄2年)9月24日:棟上式。
-
この頃から木食応其が造営に関与。
+
*1595年(文禄4年)9月21日:聖護院門跡道澄が住職に任命された。1万石寄進。
-
1593年(文禄2年)9月24日、棟上式。
+
*1595年(文禄4年)9月25日:父母の供養を各宗派に命じて千僧を出仕させた。
-
1595年(文禄4年)9月21日、聖護院門跡道澄が住職に任命された。
+
*1595年(文禄4年)閏7月13日大地震。本尊・築地が大破。開眼法要は延期された。
-
1万石寄進。
+
*1595年(文禄4年)9月7日:甲斐の善光寺如来を迎えるように秀吉が命じた。
-
9月25日、父母の供養を各宗派に命じて千僧を出仕させた。
+
*1597年(慶長2年)7月18日:善光寺如来が到着。
-
 
+
*1598年(慶長3年)7月:開眼法要は8月22日と決まった。
-
同年閏7月13日大地震。本尊・築地が大破。
+
*1598年(慶長3年)8月17日:信濃に還座することになった。病床に臥せった秀吉に夢告があったためという。
-
開眼法要は延期された。
+
*1598年(慶長3年)8月18日:秀吉は死去。
-
9月7日、甲斐の善光寺如来を迎えるように秀吉が命じた。
+
*1598年(慶長3年)8月22日:秀吉の死去は伏せられたまま本尊のない大仏殿で開眼法要が行われた。
-
 
+
*1599年(慶長4年)3月:秀頼が工事を再開した
-
1597年(慶長2年)7月18日、善光寺如来が到着。
+
*1602年(慶長7年)12月4日:鋳造中の大仏から出火。
-
翌年7月に、開眼法要は8月22日と決まったが、
+
*1608年(慶長13年)末:3度目の造立を再開。
-
8月17日に信濃に還座することになった。
+
*1611年(慶長16年)6月12日:地鎮祭
-
病床に臥せった秀吉に夢告があったためという。
+
*1611年(慶長16年)8月22日:立柱
-
8月18日秀吉は死去。死は伏せられ、
+
*1612年(慶長17年)閏10月:本尊に金箔が貼られた。
-
8月22日、本尊のない大仏殿で開眼法要が行われた。
+
*1614年(慶長19年)4月:梵鐘完成
-
 
+
*1614年(慶長19年)5月:開眼法要は8月3日と決まった。しかし7月26日になって徳川家康は鐘銘を問題視。
-
翌年3月から秀頼が工事を再開したが、
+
*1662年(寛文2年):地震で被害。
-
 
+
*1665年(寛文5年):木像で再造された。
-
1602年(慶長7年)12月4日、鋳造中の大仏から出火。
+
*1798年(寛政10年):落雷の大火で焼失。
-
1608年(慶長13年)末3度目の造立を再開。
+
*1973年(昭和48年):大仏殿焼失。
-
1611年(慶長16年)6月12日、地鎮祭
+
-
8月22日立柱
+
-
翌年閏10月、本尊に金箔が貼られた。
+
-
1614年(慶長19年)4月、梵鐘完成
+
-
5月に開眼法要は8月3日と決まった。しかし7月26日になって徳川家康は鐘銘を問題視。
+
名称は盧舎那仏(大仏)の出典である『大方広仏華厳経』から取られたものと思われる。
名称は盧舎那仏(大仏)の出典である『大方広仏華厳経』から取られたものと思われる。
-
[[豊臣秀吉]]により、焼失した大仏殿大仏の代わりに、慶長2年、[[善光寺如来]]が[[甲斐善光寺]](あるいは[[鴨江寺]])より方広寺の本尊として迎えられた。しかし、善光寺如来の祟りを恐れ、翌年、[[善光寺|長野]]に戻された。
 
-
 
-
 
-
 
-
 
本坊として[[照高院門跡]]が創建された。豊臣家滅亡後は[[妙法院門跡]]の管轄下に入った。
本坊として[[照高院門跡]]が創建された。豊臣家滅亡後は[[妙法院門跡]]の管轄下に入った。
-
1662年(寛文2年)の地震で被害。1665年(寛文5年)に木像で再造された。
 
-
1798年(寛政10年)落雷の大火で焼失。
 
-
1973年(昭和48年)、大仏殿焼失。
 
==組織==
==組織==

2023年4月5日 (水) 時点における版

現在の方広寺境内

方広寺(ほうこうじ)は京都府京都市東山区茶屋町にある豊臣家ゆかりの天台宗寺院。豊臣秀吉が創建した大仏寺院善光寺遷座旧跡寺院。天台宗延暦寺派。 (参考:同名寺院方広寺


目次

歴史

江戸時代の方広寺(都名所図会)
豊国神社(南)と方広寺(北)(国土地理院空中写真より)
妙法院・豊臣秀吉墓・智積院・方広寺・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂(国土地理院空中写真より)
  • 1586年(天正14年)4月:豊臣秀吉は大仏造立を発願。まもなく着工したが、8月には中断。
  • 1588年(天正16年):再開。
  • 1591年(天正19年)5月20日:立柱。この頃から木食応其が造営に関与。
  • 1593年(文禄2年)9月24日:棟上式。
  • 1595年(文禄4年)9月21日:聖護院門跡道澄が住職に任命された。1万石寄進。
  • 1595年(文禄4年)9月25日:父母の供養を各宗派に命じて千僧を出仕させた。
  • 1595年(文禄4年)閏7月13日大地震。本尊・築地が大破。開眼法要は延期された。
  • 1595年(文禄4年)9月7日:甲斐の善光寺如来を迎えるように秀吉が命じた。
  • 1597年(慶長2年)7月18日:善光寺如来が到着。
  • 1598年(慶長3年)7月:開眼法要は8月22日と決まった。
  • 1598年(慶長3年)8月17日:信濃に還座することになった。病床に臥せった秀吉に夢告があったためという。
  • 1598年(慶長3年)8月18日:秀吉は死去。
  • 1598年(慶長3年)8月22日:秀吉の死去は伏せられたまま本尊のない大仏殿で開眼法要が行われた。
  • 1599年(慶長4年)3月:秀頼が工事を再開した
  • 1602年(慶長7年)12月4日:鋳造中の大仏から出火。
  • 1608年(慶長13年)末:3度目の造立を再開。
  • 1611年(慶長16年)6月12日:地鎮祭
  • 1611年(慶長16年)8月22日:立柱
  • 1612年(慶長17年)閏10月:本尊に金箔が貼られた。
  • 1614年(慶長19年)4月:梵鐘完成
  • 1614年(慶長19年)5月:開眼法要は8月3日と決まった。しかし7月26日になって徳川家康は鐘銘を問題視。
  • 1662年(寛文2年):地震で被害。
  • 1665年(寛文5年):木像で再造された。
  • 1798年(寛政10年):落雷の大火で焼失。
  • 1973年(昭和48年):大仏殿焼失。

名称は盧舎那仏(大仏)の出典である『大方広仏華厳経』から取られたものと思われる。 本坊として照高院門跡が創建された。豊臣家滅亡後は妙法院門跡の管轄下に入った。

組織

歴代住職(近世)

豊臣家滅亡後の1615年(元和1年)から妙法院門跡が兼務。

  • 1道澄(1544-1608)<1595->: 照高院1世。(略歴は照高院宮#組織を参照)
  • 2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620)<1601->:照高院宮初代。聖護院門跡。園城寺長吏。1601年(慶長6年)方広寺別当。1615年(元和1年)豊臣家滅亡で追放された。江戸で客死。(略歴は照高院宮#組織を参照)
  • 3常胤法親王(1548-1621)<>:天台座主。妙法院門跡門主33世。1615年(元和1年)妙法院門跡が兼務。(略歴は妙法院門跡#組織を参照)

歴代住職(明治以降)

  • 村田泰良()<>:村田寂順の実弟。
  • 木下寂善(1876-1942)<1932->:二尊院住職。四天王寺住職。(略歴は四天王寺#組織を参照)
  • 木下寂俊(1947-)<1970->:天台宗宗務総長。1947年(昭和22年)生。龍谷大学文学部仏教学科卒業。1970年(昭和45年)方広寺住職。1997年(平成9年)妙法院門跡執事長。2013年(平成25年)、天台宗宗務総長。

画像

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール