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京都・浄土寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?歴代住職)
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'''浄土寺'''(じょうどじ)は、京都府京都市左京区にあった[[天台宗]]の[[門跡寺院]]。廃絶。[[浄土院]]が後継寺院とされる。[[八神社]]が鎮守だったという。
'''浄土寺'''(じょうどじ)は、京都府京都市左京区にあった[[天台宗]]の[[門跡寺院]]。廃絶。[[浄土院]]が後継寺院とされる。[[八神社]]が鎮守だったという。
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==歴代住職==
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==組織==
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*1:明救
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===住職===
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*2:円基
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*1明救(946-1020):天台座主。醍醐天皇の孫。有明親王の王子。延昌の弟子で、同門に空也がいる。浄土寺僧正。
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*3:尋基
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*2円基():天台座主。近衛基通の子。
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*4:慈勝
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*3尋基():
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*5:慈伝
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*4慈勝():『太平記』に言及あり。
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*6:慈忠
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*5慈伝():
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*7:慈弁
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*6慈忠():
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*8:政弁
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*7慈弁():
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*9:慈禅
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*8政弁():
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*10:慈基
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*9慈禅():天台座主。
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*11:政玄
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*10慈基():天台座主。鷹司兼平の子。
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*12:尊基
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*11政玄():
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*13:禅基
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*12尊基():
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*14:覚尋
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*15:相豪
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*14覚尋():
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*16:仁操
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*15相豪():
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*17:持弁
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*16仁操():
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*18:弁雅
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*17持弁():
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*19:義尋(1439-1491):足利義視。室町幕府将軍6代足利義教の十男。1443年(嘉吉3年)浄土寺に入寺。兄の義政(8代将軍)に子がいないため、1464年(寛正5年)にその後嗣となり還俗して足利義視と名乗る。しかし翌年、義政に実子義尚が生まれたため後継者争いが勃発。1467年(応仁1年)に始まる応仁の乱の直接的要因となる。同年5月、北畠教具を頼って伊勢に逃亡。翌年9月、義政の説得で上京。細川勝元の東軍の陣に入った。しかし兄弟不和のため、11月には山名持豊の西軍側に付いた。1477年(文明9年)和平の動きがあり、土岐成頼を頼って美濃に下った。翌年和睦。1489年(延徳1年)、上京して[[通玄寺]]に入り、再び出家。道存と称した。翌年、義政が死去すると、子の足利義材が将軍となり、義視が幕政の実権を握り、大御所と呼ばれた。通玄寺で死去。(国史大辞典)
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*18弁雅():天台座主。
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*20:慈静
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*19義尋(1439-1491):足利義視。室町幕府将軍6代足利義教の十男。1443年(嘉吉3年)浄土寺に入寺。兄の義政(8代将軍)に子がいないため、1464年(寛正5年)にその後嗣となり還俗して足利義視と名乗る。しかし翌年、義政に実子義尚が生まれたため後継者争いが勃発。1467年(応仁1年)に始まる応仁の乱の直接的要因となる。同年5月、北畠教具を頼って伊勢に逃亡。翌年9月、義政の説得で上京。細川勝元の東軍の陣に入った。しかし兄弟不和のため、11月には山名持豊の西軍側に付いた。1477年(文明9年)和平の動きがあり、土岐成頼を頼って美濃に下った。翌年和睦。1489年(延徳1年)、上京して[[通玄寺]]に入り、再び出家。道存と称した。翌年、義政が死去すると、子の足利義材が将軍となり、義視が幕政の実権を握り、大御所と呼ばれた。通玄寺で死去。(国史大辞典)
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*20慈静
(『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』)
(『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』)
[[Category:京都府]]
[[Category:京都府]]

2018年7月14日 (土) 時点における版

浄土寺(じょうどじ)は、京都府京都市左京区にあった天台宗門跡寺院。廃絶。浄土院が後継寺院とされる。八神社が鎮守だったという。

組織

住職

  • 1明救(946-1020):天台座主。醍醐天皇の孫。有明親王の王子。延昌の弟子で、同門に空也がいる。浄土寺僧正。
  • 2円基():天台座主。近衛基通の子。
  • 3尋基():
  • 4慈勝():『太平記』に言及あり。
  • 5慈伝():
  • 6慈忠():
  • 7慈弁():
  • 8政弁():
  • 9慈禅():天台座主。
  • 10慈基():天台座主。鷹司兼平の子。
  • 11政玄():
  • 12尊基():
  • 13禅基():
  • 14覚尋():
  • 15相豪():
  • 16仁操():
  • 17持弁():
  • 18弁雅():天台座主。
  • 19義尋(1439-1491):足利義視。室町幕府将軍6代足利義教の十男。1443年(嘉吉3年)浄土寺に入寺。兄の義政(8代将軍)に子がいないため、1464年(寛正5年)にその後嗣となり還俗して足利義視と名乗る。しかし翌年、義政に実子義尚が生まれたため後継者争いが勃発。1467年(応仁1年)に始まる応仁の乱の直接的要因となる。同年5月、北畠教具を頼って伊勢に逃亡。翌年9月、義政の説得で上京。細川勝元の東軍の陣に入った。しかし兄弟不和のため、11月には山名持豊の西軍側に付いた。1477年(文明9年)和平の動きがあり、土岐成頼を頼って美濃に下った。翌年和睦。1489年(延徳1年)、上京して通玄寺に入り、再び出家。道存と称した。翌年、義政が死去すると、子の足利義材が将軍となり、義視が幕政の実権を握り、大御所と呼ばれた。通玄寺で死去。(国史大辞典)
  • 20慈静

(『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA」より作成

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