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京都・浄土寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2018年7月14日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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浄土寺(じょうどじ)は、京都府京都市左京区にあった天台宗門跡寺院。廃絶。浄土院が後継寺院とされる。八神社が鎮守だったという。

歴代住職

  • 1:明救
  • 2:円基
  • 3:尋基
  • 4:慈勝
  • 5:慈伝
  • 6:慈忠
  • 7:慈弁
  • 8:政弁
  • 9:慈禅
  • 10:慈基
  • 11:政玄
  • 12:尊基
  • 13:禅基
  • 14:覚尋
  • 15:相豪
  • 16:仁操
  • 17:持弁
  • 18:弁雅
  • 19:義尋(1439-1491):足利義視。室町幕府将軍6代足利義教の十男。1443年(嘉吉3年)浄土寺に入寺。兄の義政(8代将軍)に子がいないため、1464年(寛正5年)にその後嗣となり還俗して足利義視と名乗る。しかし翌年、義政に実子義尚が生まれたため後継者争いが勃発。1467年(応仁1年)に始まる応仁の乱の直接的要因となる。同年5月、北畠教具を頼って伊勢に逃亡。翌年9月、義政の説得で上京。細川勝元の東軍の陣に入った。しかし兄弟不和のため、11月には山名持豊の西軍側に付いた。1477年(文明9年)和平の動きがあり、土岐成頼を頼って美濃に下った。翌年和睦。1489年(延徳1年)、上京して通玄寺に入り、再び出家。道存と称した。翌年、義政が死去すると、子の足利義材が将軍となり、義視が幕政の実権を握り、大御所と呼ばれた。通玄寺で死去。(国史大辞典)
  • 20:慈静

(『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA」より作成

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