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六英堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月17日 (水)
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- | + | 芳太郎は、川崎家の根拠地である神戸の布引に移築することを思いついた。これより先、明治15年(1882)ごろ、川崎造船の創始者川崎正蔵は布引の地を買い取り、川崎家の菩提寺として丸山の北麓に[[徳光院]]を創建し、自邸を建て、川崎家の根拠地としていた。丸山は[[生田神社]]の元の鎮座地でもあった。 | |
- | + | 川崎芳太郎の死後、川崎武之助が事業を継承した。岩倉具視の旧邸が大正11年(1922)、神戸に移築されて、上記の六位が祀られ、肖像が掲げられた。大正10年(1921)5月に移築着工して、翌年2月に竣工した。この間の大正10年(1921)7月19日、「入牌式」が行われた。昭和9年(1934)11月1日、史跡となった。 | |
- | + | 昭和13年(1938)の阪神大水害により、布引にあった川崎家の邸宅は全壊し、大きな被害を受けた。さらに戦後の財閥解体により、川崎家は衰退し、布引丸山の地も手放さざるを得なくなった。 | |
- | + | 川崎財閥に代わって丸山の地を入手した大和観光の米田茂は、六英堂を他に譲渡することとし、[[生田神社]]に相談したところ、[[西宮神社]]に話が伝わり、昭和52年(1977)、建物は西宮神社に移築された。 | |
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2019年7月17日 (水) 時点における最新版
六英堂 ろくえいどう | |
概要 | 明治維新の英雄を合祀した霊廟。廃絶。 |
奉斎 | 岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、三条実美、伊藤博文 |
所在地 | (廃絶)(兵庫県神戸市中央区葺合町布引山) |
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六英堂(ろくえいどう)は、兵庫県神戸市中央区の布引山にあった、岩倉具視ら明治の六傑を祀る霊廟。岩倉具視旧邸屋敷が社殿とされた。祭神は岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、三条実美、伊藤博文である。大正10年(1921)に創建され、その後廃絶した。鎮座地は布引の丸山[1]であった。建物は西宮神社内に現存する。
西郷隆盛を除く岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、三条実美、伊藤博文の五柱は神奈川県大磯町にある伊藤博文邸・吉田茂邸の七賢堂にも合祀されている。
目次 |
歴史
東京皇居前馬場先門内にあった岩倉具視旧邸は上地のため、取り壊されそうになったが、新宿に移築されて残された。新宿駅拡張のために再び移転問題が持ち上がったが、日本鉄道会社が岩倉具視を祀った神社を創建する計画を立てたことから、その予定地に移されたが、神社計画は鉄道学校設置に変更された。鉄道国有化に合わせて、旧邸売却の話が持ち上がった。これを聞きつけたのが川崎財閥の川崎芳太郎だった。
芳太郎は、川崎家の根拠地である神戸の布引に移築することを思いついた。これより先、明治15年(1882)ごろ、川崎造船の創始者川崎正蔵は布引の地を買い取り、川崎家の菩提寺として丸山の北麓に徳光院を創建し、自邸を建て、川崎家の根拠地としていた。丸山は生田神社の元の鎮座地でもあった。
川崎芳太郎の死後、川崎武之助が事業を継承した。岩倉具視の旧邸が大正11年(1922)、神戸に移築されて、上記の六位が祀られ、肖像が掲げられた。大正10年(1921)5月に移築着工して、翌年2月に竣工した。この間の大正10年(1921)7月19日、「入牌式」が行われた。昭和9年(1934)11月1日、史跡となった。
昭和13年(1938)の阪神大水害により、布引にあった川崎家の邸宅は全壊し、大きな被害を受けた。さらに戦後の財閥解体により、川崎家は衰退し、布引丸山の地も手放さざるを得なくなった。
川崎財閥に代わって丸山の地を入手した大和観光の米田茂は、六英堂を他に譲渡することとし、生田神社に相談したところ、西宮神社に話が伝わり、昭和52年(1977)、建物は西宮神社に移築された。
移築の際には既に荒廃しており、戦後すぐには柔剣道場として使われていたというから、このころには祭祀は継続してなかったのだろう。時期は不明だが、位牌は徳光院に遷座した。
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参考文献
- 楠本利夫 2011(平成23)「神戸布引・岩倉具視旧居と川崎家の人々」神戸外国人居留地研究会編『居留地の街から』神戸新聞総合出版センター
脚注
- ↑ 布引山、砂山ともいう。