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千福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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南陽慧忠(675-775)が[[光宅寺]]に入る前、千福寺西禅院に最初に滞在。 | 南陽慧忠(675-775)が[[光宅寺]]に入る前、千福寺西禅院に最初に滞在。 | ||
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49人の僧の中には[[草堂寺]]の飛錫(生没年不詳)もいた。 | 49人の僧の中には[[草堂寺]]の飛錫(生没年不詳)もいた。 | ||
+ | 752年、「千福寺多宝塔感応碑」(顔真卿筆)建立(西安碑林に現存)。 | ||
774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。 | 774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。 | ||
845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。 | 845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。 | ||
+ | (小林順彦「中国唐代における法華道場について」[https://doi.org/10.4259/ibk.58.1_256]ほか) | ||
[[category:中華人民共和国陝西省]] | [[category:中華人民共和国陝西省]] |
2019年7月15日 (月) 時点における版
千福寺は長安安定坊の東南にあった仏教寺院。「千福寺多宝塔感応碑」が知られる。日本の円珍が千福寺で慧思と智顗の真影を拝した。別称は興元寺。大安国寺と左右対象の位置にあり、共に法華道場が置かれた。
歴史
673年、意懐太子の邸宅を寺とした。 7世紀後半、浄土五祖の懐感(生没年不詳)が『釈浄土群疑論』を記したのも千福寺である。 南陽慧忠(675-775)が光宅寺に入る前、千福寺西禅院に最初に滞在。 744年、楚金(698-759)という僧が千福寺に法華道場を開き、49人の僧を集めて法華三昧を始めた。また多宝塔を建てたという。東塔院と西塔院があったという記述もある。 49人の僧の中には草堂寺の飛錫(生没年不詳)もいた。 752年、「千福寺多宝塔感応碑」(顔真卿筆)建立(西安碑林に現存)。 774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。 845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。
(小林順彦「中国唐代における法華道場について」[1]ほか)