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千福寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''千福寺'''は[[長安]]安定坊の東南にあった仏教寺院。「千福寺多宝塔感応碑」が知られる。日本の[[円珍]]が千福寺で[[慧思]]と[[智顗]]の真影を拝した。別称は'''興元寺'''。[[大安国寺]]と左右対象の位置にあり、共に法華道場が置かれた。
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'''千福寺'''は[[長安]]安定坊の東南にあった仏教寺院。顔真卿筆の「千福寺多宝塔感応碑」が知られる。日本の[[円珍]]が千福寺で[[慧思]]と[[智顗]]の真影を拝した。別称は'''興元寺'''。[[大安国寺]]と左右対象の位置にあり、共に法華道場が置かれた。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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7世紀後半、浄土五祖の懐感(生没年不詳)が『釈浄土群疑論』を記したのも千福寺である。
7世紀後半、浄土五祖の懐感(生没年不詳)が『釈浄土群疑論』を記したのも千福寺である。
南陽慧忠(675-775)が[[光宅寺]]に入る前、千福寺西禅院に最初に滞在。
南陽慧忠(675-775)が[[光宅寺]]に入る前、千福寺西禅院に最初に滞在。
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744年、楚金(698-759)という僧が千福寺に法華道場を開き、49人の僧を集めて法華三昧を始めた。また多宝塔を建てたという。東塔院と西塔院があったという記述もある。
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744年、楚金(698-759)という僧が千福寺に法華道場を開き、49人の僧を集めて法華三昧を始めた。
49人の僧の中には[[草堂寺]]の飛錫(生没年不詳)もいた。
49人の僧の中には[[草堂寺]]の飛錫(生没年不詳)もいた。
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752年、「千福寺多宝塔感応碑」(顔真卿筆)建立(西安碑林に現存)。
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752年4月22日、楚金はまた多宝塔を建て、法華経1000部と舎利3000粒を納めたという。同年建立の「千福寺多宝塔感応碑」(西安碑林に現存)によると、ある夜、『法華経』の「多宝塔品」(見宝塔品)を読誦していると、心身泊然として禅定に入るが如くたちまち宝塔が現れ、空中に釈迦の分身の諸仏が遍満し、6年後に宝塔を建てることを誓願したのがきっかけと記す。この塔の「多宝塔」の名称の早いもので、最澄らによって天台宗思想と共に日本にもたらされたと考えられている。ただし建築様式は現在、日本でいう多宝塔と同じであったかは分からない。
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東塔院と西塔院があった。
774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。
774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。
845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。
845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。
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(小林順彦「中国唐代における法華道場について」[https://doi.org/10.4259/ibk.58.1_256]ほか)
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*小林順彦「中国唐代における法華道場について」[https://doi.org/10.4259/ibk.58.1_256]
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*清水擴「多宝塔についての史的考察」[https://doi.org/10.24574/jsahj.1.0_60]
[[category:中華人民共和国陝西省]]
[[category:中華人民共和国陝西省]]

2019年7月15日 (月) 時点における版

千福寺長安安定坊の東南にあった仏教寺院。顔真卿筆の「千福寺多宝塔感応碑」が知られる。日本の円珍が千福寺で慧思智顗の真影を拝した。別称は興元寺大安国寺と左右対象の位置にあり、共に法華道場が置かれた。

歴史

673年、意懐太子の邸宅を寺とした。 7世紀後半、浄土五祖の懐感(生没年不詳)が『釈浄土群疑論』を記したのも千福寺である。 南陽慧忠(675-775)が光宅寺に入る前、千福寺西禅院に最初に滞在。 744年、楚金(698-759)という僧が千福寺に法華道場を開き、49人の僧を集めて法華三昧を始めた。 49人の僧の中には草堂寺の飛錫(生没年不詳)もいた。 752年4月22日、楚金はまた多宝塔を建て、法華経1000部と舎利3000粒を納めたという。同年建立の「千福寺多宝塔感応碑」(西安碑林に現存)によると、ある夜、『法華経』の「多宝塔品」(見宝塔品)を読誦していると、心身泊然として禅定に入るが如くたちまち宝塔が現れ、空中に釈迦の分身の諸仏が遍満し、6年後に宝塔を建てることを誓願したのがきっかけと記す。この塔の「多宝塔」の名称の早いもので、最澄らによって天台宗思想と共に日本にもたらされたと考えられている。ただし建築様式は現在、日本でいう多宝塔と同じであったかは分からない。 東塔院と西塔院があった。 774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。 845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。

  • 小林順彦「中国唐代における法華道場について」[1]
  • 清水擴「多宝塔についての史的考察」[2]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8D%83%E7%A6%8F%E5%AF%BA」より作成

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