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唐沢山神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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一般に生没年不詳とされるが、下野では正暦2年(991)に没したと伝承されている。秀郷が開基となった東明寺に葬られた。唐沢山の西2kmに位置する、東明寺跡伝承地には現在も[[藤原秀郷墓|墳墓]]があり、神社の飛地境内になっている。 | 一般に生没年不詳とされるが、下野では正暦2年(991)に没したと伝承されている。秀郷が開基となった東明寺に葬られた。唐沢山の西2kmに位置する、東明寺跡伝承地には現在も[[藤原秀郷墓|墳墓]]があり、神社の飛地境内になっている。 | ||
[[徳川家康]]神柩の[[日光東照宮|日光]]奉遷のとき、とどまった[[惣宗寺]]に集まるように命じられたが、東明寺僧侶は行かなかったため、廃絶になったという。現在も墓のかたわらにある'''田原八幡'''という祠は廃絶のとき、秀郷を祀って建てられたという。また群馬県伊勢崎市の曹洞宗'''宝珠寺'''にも墓所がある。 | [[徳川家康]]神柩の[[日光東照宮|日光]]奉遷のとき、とどまった[[惣宗寺]]に集まるように命じられたが、東明寺僧侶は行かなかったため、廃絶になったという。現在も墓のかたわらにある'''田原八幡'''という祠は廃絶のとき、秀郷を祀って建てられたという。また群馬県伊勢崎市の曹洞宗'''宝珠寺'''にも墓所がある。 | ||
- | 神社創建直前の明治16年8月6日には'''正三位'''が追贈された。 | + | 神社創建直前の明治16年8月6日には'''正三位'''が追贈され、のち'''正二位'''が追贈された。 |
*「藤原秀郷」(土岐昌訓論文)、「鎮守府将軍贈正二位藤原秀郷公」(昭和9、『唐沢山神社誌』) | *「藤原秀郷」(土岐昌訓論文)、「鎮守府将軍贈正二位藤原秀郷公」(昭和9、『唐沢山神社誌』) |
2015年2月28日 (土) 時点における版
唐沢山神社 からさわやま じんじゃ | |
概要 | 古代の忠臣を奉斎する神社。 |
奉斎 | 藤原秀郷 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 栃木県佐野市富士町1409 |
所在地(旧国郡) | |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 別格官幣社・別表神社 |
関連記事 | 武将奉斎神社 |
目次 |
概要
唐沢山神社(からさわやま・じんじゃ)は、栃木県佐野市にある、平将門を討伐した鎮守府将軍藤原秀郷を祀る霊社。明治16年(1883)10月創建。明治23年(1890)11月、国家の英雄として別格官幣社に列格。居城跡である唐沢山城本丸跡に鎮座する。
奉斎
俵藤太、田原藤太とも呼ばれ、下野国の在庁官人だった。下野国安蘇郡の唐沢山に築城し拠点とした。天慶2年(939)、平将門が反乱を起こすと、平貞盛らと協力し、翌年、将門を攻めて討伐したとされる。従四位下を授けられ、鎮守府将軍に任じられたという。 一般に生没年不詳とされるが、下野では正暦2年(991)に没したと伝承されている。秀郷が開基となった東明寺に葬られた。唐沢山の西2kmに位置する、東明寺跡伝承地には現在も墳墓があり、神社の飛地境内になっている。 徳川家康神柩の日光奉遷のとき、とどまった惣宗寺に集まるように命じられたが、東明寺僧侶は行かなかったため、廃絶になったという。現在も墓のかたわらにある田原八幡という祠は廃絶のとき、秀郷を祀って建てられたという。また群馬県伊勢崎市の曹洞宗宝珠寺にも墓所がある。 神社創建直前の明治16年8月6日には正三位が追贈され、のち正二位が追贈された。
- 「藤原秀郷」(土岐昌訓論文)、「鎮守府将軍贈正二位藤原秀郷公」(昭和9、『唐沢山神社誌』)
由緒
唐沢山城は、佐野市街地、佐野城から北西4.3kmの唐沢山(247m)にある。藤原秀郷の嫡流とされる佐野家が拠点としたが、城は江戸時代に廃城となった。明治11年3月、佐野家を盛り立てるため、旧臣縁故者が沢英社を組織。ついで13年11月10日、43代当主の佐野郷(ごう)は、秀郷の霊廟を城跡に建設するために東明会を組織した。佐野常民の賛同を得て、明治14年3月17日、郷をはじめ地元住民らが神社創建願を栃木県に提出。すでに「唐沢山神社」の社名案が願書にみえる。8月には図面を添えて払い下げを願っている。
明治14年12月、唐沢山麓の官有林の払い下げと神社建設の許可が降りた。同年、天下谷政重を受持神官とする。翌年4月3日に地鎮祭を行ない、社殿を位置を定めた。16年9月に仮社殿が竣工し、10月25日、「鎮座仮式」を行った(『佐野の古蹟 唐沢山』に17年とあるが、他資料にいずれも16年とあるので誤植と思われる)。秀郷の「遠逝」の日である10月25日を例祭日とし、「建勲賜賽」の日である4月25日を春季祭とした。
歴史
創建は実現したものの仮社殿でまだ社格もなかった(?)。東明会は引き続き、活動を続けた。その結果、明治23年(1890)11月29日、内務省告示第41号で別格官幣社に列格された(『法令全書』)。翌年10月25日には、秀郷900年祭を執行。佐野常民、常羽の奔走が実り、明治39年9月15日、社殿改築を申請。10月25日仮殿遷座祭。41年10月15日本殿が竣工し、同月23日に正遷座祭が行われた。明治43年(1910)10月には一連の工事が完了したらしい。大正7年11月8日には秀郷に正二位贈位。それを記念して墓所を当社の飛地境内に編入した。
佐野常民は、唐沢山神社の創建整備に尽力した。大隈重信など各方面に働きかけるとともに、山士家左〓に『田原族譜』を編纂させ、野中準に『秀郷事実考』を考証させ、大森惟中に『秀郷勲功記』を作らせ、劇を上演させるなど藤原秀郷顕彰ムードの醸成を図った。別格官幣社列格が決まった当日には喜びの漢詩を綴っている。重信は、明治40年11月23日、自邸での講演で、相手が屈するまで自説を止めない故常民を回顧し、「決心を以って、前後ほとんど17、8年間の苦心経営して、ついに唐沢山神社を拵えた」とその信念を讃えている。
境内
歴代宮司
別格官幣社列格とともに宮司が設置された。
- 受持神官:天下谷政重
- 1代:佐野郷
- 2代:森口健吉
- 3代:戸田忠友(旧宇都宮藩主)
- 4代:阿久津真澄
- 5代:額賀大直
- 6代:金子健治
- 7代:山川鵜市
- 以下未確認
画像
参考文献
- 江森泰吉、明治34年『佐野の古蹟 唐沢山』
- 『大日本神社志』
- 唐沢山神社ウェブサイト
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』