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四天王寺短声堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月17日 (月)
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'''四天王寺短声堂'''は大阪府大阪市天王寺区四天王寺(摂津国東成郡)の[[四天王寺]]にあった[[阿弥陀堂]]。[[四天王寺極楽門|極楽門]]外の北側にあった。[[鳥羽法皇]]の勅願。[[法然]]の旧跡か。'''念仏三昧院'''、'''念仏堂'''。'''常行堂'''。引声堂(法華堂)と向かい合っていた。[[法然上人二十五霊場]]の一つだった。[[四天王寺関連旧跡]]。廃絶。 | '''四天王寺短声堂'''は大阪府大阪市天王寺区四天王寺(摂津国東成郡)の[[四天王寺]]にあった[[阿弥陀堂]]。[[四天王寺極楽門|極楽門]]外の北側にあった。[[鳥羽法皇]]の勅願。[[法然]]の旧跡か。'''念仏三昧院'''、'''念仏堂'''。'''常行堂'''。引声堂(法華堂)と向かい合っていた。[[法然上人二十五霊場]]の一つだった。[[四天王寺関連旧跡]]。廃絶。 | ||
- | 『天王寺誌』には「妙観察智弥陀、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩」とある。[[西行]]が念仏を唱えた「西行ノ坐」があったという。1923年(大正12年) | + | 『天王寺誌』には「妙観察智弥陀、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩」とある。[[西行]]が念仏を唱えた「西行ノ坐」があったという。1923年(大正12年)の境内図に「念仏堂」、1935年(昭和10年)の測量図に「常行堂」と記されている。 |
- | [[聖徳太子]]が[[用明天皇]]のために念仏修行を行ったという。「武庫山出現之弥陀」を聖徳太子が描いた絵像を祀っていた。三条西実隆が参詣時に歌を詠んでいる。鳥羽法皇は管弦を奏し、[[源頼朝]] | + | [[聖徳太子]]が[[用明天皇]]のために念仏修行を行ったという。「武庫山出現之弥陀」を聖徳太子が描いた絵像を祀っていた。三条西実隆が参詣時に歌を詠んでいる。鳥羽法皇は管弦を奏し、[[源頼朝]]はここを滞在所とした。[[四天王寺念仏三昧院]]と関連があるかもしれないが不詳。 |
+ | 1945年(昭和20年)の戦災で焼失し廃絶。法然上人二十五霊場の札所は[[四天王寺阿弥陀堂]]に移された。 | ||
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- | ファイル:安永摂州四天王寺絵図・部分・西参道.jpg| | + | ファイル:安永摂州四天王寺絵図・部分・西参道.jpg|安永摂州四天王寺絵図(仏像の配置がのちの引声堂と入れ替わっているか) |
ファイル:文化四天王寺再建絵図・部分・西参道.jpg|文化四天王寺再建絵図 | ファイル:文化四天王寺再建絵図・部分・西参道.jpg|文化四天王寺再建絵図 | ||
ファイル:摂津名所図会・四天王寺・部分・西参道.jpg|摂津名所図会 | ファイル:摂津名所図会・四天王寺・部分・西参道.jpg|摂津名所図会 |
2023年4月17日 (月) 時点における最新版
四天王寺短声堂は大阪府大阪市天王寺区四天王寺(摂津国東成郡)の四天王寺にあった阿弥陀堂。極楽門外の北側にあった。鳥羽法皇の勅願。法然の旧跡か。念仏三昧院、念仏堂。常行堂。引声堂(法華堂)と向かい合っていた。法然上人二十五霊場の一つだった。四天王寺関連旧跡。廃絶。
『天王寺誌』には「妙観察智弥陀、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩」とある。西行が念仏を唱えた「西行ノ坐」があったという。1923年(大正12年)の境内図に「念仏堂」、1935年(昭和10年)の測量図に「常行堂」と記されている。
聖徳太子が用明天皇のために念仏修行を行ったという。「武庫山出現之弥陀」を聖徳太子が描いた絵像を祀っていた。三条西実隆が参詣時に歌を詠んでいる。鳥羽法皇は管弦を奏し、源頼朝はここを滞在所とした。四天王寺念仏三昧院と関連があるかもしれないが不詳。 1945年(昭和20年)の戦災で焼失し廃絶。法然上人二十五霊場の札所は四天王寺阿弥陀堂に移された。