ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

大峰山寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年3月2日 (火)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
 
(間の4版分が非表示)
1行: 1行:
-
'''大峰山寺'''(おおみねさんじ)は、奈良県吉野郡天川村の[[大峰山]]頂上にある、[[修験道]]の根本道場の寺院。かつては[[金峰山寺]]と一体だった。
+
'''大峰山寺'''(おおみねさんじ)は、奈良県吉野郡天川村の[[大峰山]]の山上ケ岳頂上にある、[[修験道]]の根本道場の寺院。本尊は[[蔵王権現]]。元は[[金峰山寺]]の山上本堂。現在は単立寺院で、[[大峰山寺護持院|護持院]]と呼ばれる五つの寺院と[[阪堺役講]]などが共同で運営している。'''山上蔵王堂'''。'''大峯山寺'''。
 +
 
 +
== 歴史 ==
 +
[[役小角]]が蔵王権現を感得し、[[涌出岩]]の上に祀ったのが起源。
 +
[[宇多上皇]]、[[白河上皇]]が登拝。[[藤原道長]]、頼通、師通も参詣した。
 +
多数の伽藍諸社と山坊が建てられたが1534年(天文3年)4月、[[浄土真宗]]の飯貝御坊[[本善寺]]が焼き討ちして焼失した。
 +
 
 +
1616年(元和2年)、[[金峰山寺小松院]]の快元が山上本堂再建のための勧進を許可されている。
 +
1691年(元禄4年)、現在の本堂を再建。
 +
 
 +
1874年(明治7年)の神仏分離で廃絶となり、[[吉野・金峰神社]]の奥の宮とされた。
 +
1886年(明治19年)、仏堂として復興するが所属が決まらなかった。
 +
昭和前期、宗教団体法を機に、独立の寺院となった。'''大峰山寺'''の名称はこの時からである。
 +
1984年(昭和59年)に解体修理。発掘調査も行われて多数の出土品が発見された。
 +
 
 +
(日本歴史地名大系ほか)
 +
 
 +
<Gallery>
 +
file:大峰山寺001.jpg|
 +
file:大峰山寺002.jpg|
 +
file:大峰山寺003.jpg|
 +
file:大峰山寺004.jpg|
 +
file:大峰山寺005.jpg|
 +
file:大峰山寺006.jpg|
 +
file:大峰山寺007.jpg|
 +
</Gallery>
[[category:奈良県]]
[[category:奈良県]]

2021年3月2日 (火) 時点における最新版

大峰山寺(おおみねさんじ)は、奈良県吉野郡天川村の大峰山の山上ケ岳頂上にある、修験道の根本道場の寺院。本尊は蔵王権現。元は金峰山寺の山上本堂。現在は単立寺院で、護持院と呼ばれる五つの寺院と阪堺役講などが共同で運営している。山上蔵王堂大峯山寺

歴史

役小角が蔵王権現を感得し、涌出岩の上に祀ったのが起源。 宇多上皇白河上皇が登拝。藤原道長、頼通、師通も参詣した。 多数の伽藍諸社と山坊が建てられたが1534年(天文3年)4月、浄土真宗の飯貝御坊本善寺が焼き討ちして焼失した。

1616年(元和2年)、金峰山寺小松院の快元が山上本堂再建のための勧進を許可されている。 1691年(元禄4年)、現在の本堂を再建。

1874年(明治7年)の神仏分離で廃絶となり、吉野・金峰神社の奥の宮とされた。 1886年(明治19年)、仏堂として復興するが所属が決まらなかった。 昭和前期、宗教団体法を機に、独立の寺院となった。大峰山寺の名称はこの時からである。 1984年(昭和59年)に解体修理。発掘調査も行われて多数の出土品が発見された。

(日本歴史地名大系ほか)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B0%E5%B1%B1%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール