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太秦・西光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月5日 (月)
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'''西光寺'''(さいこうじ)は京都府京都市右京区太秦多藪町にある[[浄土宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[法然]]の遺骸奉安の旧地。[[浄土宗知恩院派]]。山号は来迎山。'''太秦西光寺'''。(参考:同名寺院[[西光寺]]) | '''西光寺'''(さいこうじ)は京都府京都市右京区太秦多藪町にある[[浄土宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[法然]]の遺骸奉安の旧地。[[浄土宗知恩院派]]。山号は来迎山。'''太秦西光寺'''。(参考:同名寺院[[西光寺]]) | ||
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1227年(安貞1年)、嘉禄の法難で[[延暦寺]]衆徒に大谷の墓が壊されそうになった時、一度嵯峨二尊院に移された後、再び追手が来たので[[広隆寺]]の来迎房円空のもとに遺骸は預けられた。当時の広隆寺は現在より広大な境内があり、来迎房円空の住房が西光寺の起源という。 | 1227年(安貞1年)、嘉禄の法難で[[延暦寺]]衆徒に大谷の墓が壊されそうになった時、一度嵯峨二尊院に移された後、再び追手が来たので[[広隆寺]]の来迎房円空のもとに遺骸は預けられた。当時の広隆寺は現在より広大な境内があり、来迎房円空の住房が西光寺の起源という。 | ||
文化年間に再建。1906年(明治39年)金照院を合併。1921年(大正10年)には一時尼寺となった。1924年(大正13年)には[[法然上人二十五霊場]]に加えられたが、現在は外されているようだ。 | 文化年間に再建。1906年(明治39年)金照院を合併。1921年(大正10年)には一時尼寺となった。1924年(大正13年)には[[法然上人二十五霊場]]に加えられたが、現在は外されているようだ。 | ||
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2023年6月5日 (月) 時点における最新版
西光寺(さいこうじ)は京都府京都市右京区太秦多藪町にある浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。法然の遺骸奉安の旧地。浄土宗知恩院派。山号は来迎山。太秦西光寺。(参考:同名寺院西光寺)
歴史
1227年(安貞1年)、嘉禄の法難で延暦寺衆徒に大谷の墓が壊されそうになった時、一度嵯峨二尊院に移された後、再び追手が来たので広隆寺の来迎房円空のもとに遺骸は預けられた。当時の広隆寺は現在より広大な境内があり、来迎房円空の住房が西光寺の起源という。
文化年間に再建。1906年(明治39年)金照院を合併。1921年(大正10年)には一時尼寺となった。1924年(大正13年)には法然上人二十五霊場に加えられたが、現在は外されているようだ。 (日本歴史地名大系ほか)