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山城・相応寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | 『三代実録』によると、[[真如法親王]]の弟子で[[超昇寺]]座主の壱演(一演)(803-867)が866年(貞観8年)に創建。[[河陽宮]](現[[離宮八幡宮]])の東南にあった。離宮八幡宮境内に現存する塔心礎は相応寺の塔のものという説があるが、異説もある。935年(承平5年) | + | 『三代実録』によると、[[真如法親王]]の弟子で[[超昇寺]]座主の壱演(一演)(803-867)が866年(貞観8年)に創建。[[河陽宮]](現[[離宮八幡宮]])の東南にあった。離宮八幡宮境内に現存する塔心礎は相応寺の塔のものという説があるが、異説もある。935年(承平5年)2月には紀貫之が土佐国府から[[平安京]]に帰る途中に寺の近くを通っている(『土佐日記』)。中世以降、衰退。江戸時代には[[薬師如来]]を祀る小堂のみが残っていた(『山州名跡志』『山城名勝志』)。幕末には廃絶したらしい。(『日本歴史地名大系』) |
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2018年9月1日 (土) 時点における版
相応寺(そうおうじ)は京都府乙訓郡大山崎町大山崎にあった真言宗寺院。(参考:同名寺院相応寺)
歴史
『三代実録』によると、真如法親王の弟子で超昇寺座主の壱演(一演)(803-867)が866年(貞観8年)に創建。河陽宮(現離宮八幡宮)の東南にあった。離宮八幡宮境内に現存する塔心礎は相応寺の塔のものという説があるが、異説もある。935年(承平5年)2月には紀貫之が土佐国府から平安京に帰る途中に寺の近くを通っている(『土佐日記』)。中世以降、衰退。江戸時代には薬師如来を祀る小堂のみが残っていた(『山州名跡志』『山城名勝志』)。幕末には廃絶したらしい。(『日本歴史地名大系』)