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岡宮天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | 奈良県高市郡高取町森にある追尊天皇[[草壁皇子]](662-689)の[[天皇陵|陵墓]]。草壁皇子は[[天武天皇]]と[[持統天皇]]の皇子で、尊号を'''岡宮天皇'''(おかのみや・てんのう)、'''岡宮御宇天皇'''(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)という。'''真弓丘陵'''。'''檀山陵'''。'''森谷王塚古墳'''に比定される。素盞嗚命神社が隣接する。 | |
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- | + | 草壁皇子は689年(持統3年)4月13日に死去。『日本書紀』には葬送を伝える記事はないが、『万葉集』などから「真弓丘」に葬られたことが分かる。758年(天平宝字2年)、甥にあたる[[淳仁天皇]]から岡宮御宇天皇の尊号を贈られた。正式にはこの時から天皇陵の扱いを受けるようになったと思われるが、以前から特別な扱いをされていた。陵墓とは直接関係ないが天皇の忌日法要である[[国忌]]の対象に707年(慶雲4年)、草壁皇子が加えられた。755年(天平勝宝7年)、[[聖武天皇]]の病気平癒祈願のために「山科、大内東西、安古、真弓、奈保山東西等山陵」に使者が派遣された。草壁皇子の「真弓」墓が、[[天智天皇陵]]、[[天武天皇陵]]、[[持統天皇陵]]、[[文武天皇陵]]、[[元明天皇陵]]、[[元正天皇陵]]に並んで列挙されているのは注目に値する。765年(天平神護1年)10月15日、[[称徳天皇]]が紀伊に向かう途中、「檀山陵」で儀礼を行ったという。『延喜式』には「真弓丘陵」とある。 | |
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+ | 現在の森谷王塚古墳となったのは「文久の修陵」の際とみられるが、[[束明神古墳]]とする説もある。 | ||
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2020年1月5日 (日) 時点における版
奈良県高市郡高取町森にある追尊天皇草壁皇子(662-689)の陵墓。草壁皇子は天武天皇と持統天皇の皇子で、尊号を岡宮天皇(おかのみや・てんのう)、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)という。真弓丘陵。檀山陵。森谷王塚古墳に比定される。素盞嗚命神社が隣接する。
歴史
草壁皇子は689年(持統3年)4月13日に死去。『日本書紀』には葬送を伝える記事はないが、『万葉集』などから「真弓丘」に葬られたことが分かる。758年(天平宝字2年)、甥にあたる淳仁天皇から岡宮御宇天皇の尊号を贈られた。正式にはこの時から天皇陵の扱いを受けるようになったと思われるが、以前から特別な扱いをされていた。陵墓とは直接関係ないが天皇の忌日法要である国忌の対象に707年(慶雲4年)、草壁皇子が加えられた。755年(天平勝宝7年)、聖武天皇の病気平癒祈願のために「山科、大内東西、安古、真弓、奈保山東西等山陵」に使者が派遣された。草壁皇子の「真弓」墓が、天智天皇陵、天武天皇陵、持統天皇陵、文武天皇陵、元明天皇陵、元正天皇陵に並んで列挙されているのは注目に値する。765年(天平神護1年)10月15日、称徳天皇が紀伊に向かう途中、「檀山陵」で儀礼を行ったという。『延喜式』には「真弓丘陵」とある。
現在の森谷王塚古墳となったのは「文久の修陵」の際とみられるが、束明神古墳とする説もある。
(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)