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弘正寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''弘正寺'''(こうしょうじ)は伊勢国度会郡(三重県伊勢市楠部町)にあった[[南都仏教]]・[[真言宗]]の寺院。[[真言律宗西大寺流]]。廃絶。[[伊勢神宮]]の本地仏を奉斎するという。[[叡尊旧跡]]。[[伊勢神宮関連旧跡]]。[[関東祈祷所]]。
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'''弘正寺'''(こうしょうじ)は伊勢国度会郡(三重県伊勢市楠部町)にあった[[南都仏教]]・[[真言宗]]の寺院。[[真言律宗西大寺流]]。廃絶。[[伊勢神宮]]の本地仏である金胎[[大日如来]]を奉斎したという。[[叡尊旧跡]]。[[伊勢神宮関連旧跡]]。[[関東祈祷所]]。'''興正寺'''。山号は神護山。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
楠部町の伊勢農協あたりが跡地とされる。
楠部町の伊勢農協あたりが跡地とされる。
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[[西大寺]]中興の叡尊は1280年3月、門弟100人余りを率いて伊勢神宮に参拝し、蒙古退散を祈願。
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[[西大寺]]中興で西大寺流開祖の叡尊は1280年3月、門弟100人余りを率いて[[伊勢神宮]]に参拝し、蒙古退散を祈願。叡尊の神宮参詣は3回目だった。
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この時創建したのが弘正寺の起源で、その高弟宣瑜(1240-1325、西大寺長老3世)が住職となった。
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この時、一堂を建てたのが弘正寺の起源で、高弟宣瑜(1240-1325、西大寺長老3世)が住職となった。
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弘正寺の名は叡尊の諡号である「興正菩薩」に由来するのかもしれない。
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弘正寺は興正寺とも書かれることもあり、名称は叡尊の諡号である「興正菩薩」に由来するのかもしれない。
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永仁6年(1298)、[[忍性]]の請願で認められた関東祈祷所34寺の一つ。
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永仁6年(1298)、[[忍性]]の請願で認められた関東祈祷所34寺の一つ。伊勢における西大寺末の筆頭だった。
西北西1.1kmの清丸稲荷神社にある高さ3.4mの大型の五輪塔(「大五輪(おおごり)の五輪塔」、「楠部五輪塔」)は弘正寺の管轄にあったもので、叡尊の墓塔である可能性が指摘されている。
西北西1.1kmの清丸稲荷神社にある高さ3.4mの大型の五輪塔(「大五輪(おおごり)の五輪塔」、「楠部五輪塔」)は弘正寺の管轄にあったもので、叡尊の墓塔である可能性が指摘されている。
[[category:三重県]]
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2019年12月22日 (日) 時点における版

弘正寺(こうしょうじ)は伊勢国度会郡(三重県伊勢市楠部町)にあった南都仏教真言宗の寺院。真言律宗西大寺流。廃絶。伊勢神宮の本地仏である金胎大日如来を奉斎したという。叡尊旧跡伊勢神宮関連旧跡関東祈祷所興正寺。山号は神護山。

歴史

楠部町の伊勢農協あたりが跡地とされる。 西大寺中興で西大寺流開祖の叡尊は1280年3月、門弟100人余りを率いて伊勢神宮に参拝し、蒙古退散を祈願。叡尊の神宮参詣は3回目だった。 この時、一堂を建てたのが弘正寺の起源で、高弟宣瑜(1240-1325、西大寺長老3世)が住職となった。 弘正寺は興正寺とも書かれることもあり、名称は叡尊の諡号である「興正菩薩」に由来するのかもしれない。 永仁6年(1298)、忍性の請願で認められた関東祈祷所34寺の一つ。伊勢における西大寺末の筆頭だった。 西北西1.1kmの清丸稲荷神社にある高さ3.4mの大型の五輪塔(「大五輪(おおごり)の五輪塔」、「楠部五輪塔」)は弘正寺の管轄にあったもので、叡尊の墓塔である可能性が指摘されている。

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