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正暦寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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「菩提山正暦寺原記」によれば、正暦3年(992)、関白藤原兼家の子の兼俊が創建。[[興福寺龍華樹院]]を移したともいう。保安3年(1122)、関白藤原忠通が鳥羽天皇の平癒祈願を行い、康治元年(1142)には忠通が[[室生寺]]参詣の途中に立ち寄っている。藤原氏北家の氏寺のように認識されていたという。 | 「菩提山正暦寺原記」によれば、正暦3年(992)、関白藤原兼家の子の兼俊が創建。[[興福寺龍華樹院]]を移したともいう。保安3年(1122)、関白藤原忠通が鳥羽天皇の平癒祈願を行い、康治元年(1142)には忠通が[[室生寺]]参詣の途中に立ち寄っている。藤原氏北家の氏寺のように認識されていたという。 | ||
治承4年(1180)12月、[[平重衡]]の南都焼き討ちで焼失。建保6年(1218)、[[一乗院門跡]]と[[大乗院門跡]]を兼任した[[興福寺]]別当の信円が復興。以後、興福寺別院のような位置付けとなる。 | 治承4年(1180)12月、[[平重衡]]の南都焼き討ちで焼失。建保6年(1218)、[[一乗院門跡]]と[[大乗院門跡]]を兼任した[[興福寺]]別当の信円が復興。以後、興福寺別院のような位置付けとなる。 | ||
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+ | 信円は、伽藍復興に先駆けて文治5年(1189)、拠点として塔頭[[正暦寺正願院|正願院]]を創建。弥勒菩薩を祀った。以後、正暦寺の本坊のような存在となり、門跡と呼ばれ、大乗院門跡が兼任した。 | ||
+ | 法相宗、真言宗、浄土宗を兼学した。 | ||
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+ | 康正元年11月11日、本堂など焼失。文明6年4月7日、大門焼失。永正4年、大門以外焼失。 | ||
+ | 天正から文禄頃に興福寺末から離脱。以後、真言宗寺院となる。 | ||
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+ | 寛永6年、本堂焼失。文化6年、本堂大破。天保7年、本堂など焼失。文久4年、仮本堂として建てられたのが現在の本堂という。 | ||
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+ | *六所神社:春日神社に合祀 | ||
+ | *[[正願院]] | ||
+ | *安養院:法然門下の蓮光が住み、浄土教の拠点となる。 | ||
+ | *迎接院 | ||
+ | *福寿院 | ||
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2017年8月26日 (土) 時点における版
正暦寺(しょうりゃくじ)は、奈良県奈良市にある真言宗寺院。本尊は薬師如来。元号寺。菩提山真言宗大本山。龍華樹院。
歴史
「菩提山正暦寺原記」によれば、正暦3年(992)、関白藤原兼家の子の兼俊が創建。興福寺龍華樹院を移したともいう。保安3年(1122)、関白藤原忠通が鳥羽天皇の平癒祈願を行い、康治元年(1142)には忠通が室生寺参詣の途中に立ち寄っている。藤原氏北家の氏寺のように認識されていたという。 治承4年(1180)12月、平重衡の南都焼き討ちで焼失。建保6年(1218)、一乗院門跡と大乗院門跡を兼任した興福寺別当の信円が復興。以後、興福寺別院のような位置付けとなる。
信円は、伽藍復興に先駆けて文治5年(1189)、拠点として塔頭正願院を創建。弥勒菩薩を祀った。以後、正暦寺の本坊のような存在となり、門跡と呼ばれ、大乗院門跡が兼任した。 法相宗、真言宗、浄土宗を兼学した。
康正元年11月11日、本堂など焼失。文明6年4月7日、大門焼失。永正4年、大門以外焼失。 天正から文禄頃に興福寺末から離脱。以後、真言宗寺院となる。
寛永6年、本堂焼失。文化6年、本堂大破。天保7年、本堂など焼失。文久4年、仮本堂として建てられたのが現在の本堂という。
(日本歴史地名大系)
伽藍と塔頭
- 本堂
- 六所神社:春日神社に合祀
- 正願院
- 安養院:法然門下の蓮光が住み、浄土教の拠点となる。
- 迎接院
- 福寿院