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生国魂神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | 日本の国土の神霊を祀る神社。八十島祭と関わりあるらしい。 | |
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*相殿:大物主大神<ref>以上、由緒書による</ref> | *相殿:大物主大神<ref>以上、由緒書による</ref> | ||
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+ | 生島神については「共に生気満ち諸事足らざるなきを讃美する称辞」<ref>『神道大辞典』</ref>といい、「生国魂神」と同一視され、足島神の「たる」は「事物の完全充足」を意味し、「足国魂神」「咲国魂神」と同一視されている。 | ||
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+ | 本地は薬師如来とされる。 | ||
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+ | 文献上の初出は、『日本書紀』「孝徳天皇紀」である。孝徳天皇は、当社の樹を伐採したため、「仏法を尊び、神祇を軽んじた」と評価された。樹の伐採は難波宮造営のためだと考えられている。 | ||
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+ | 飛鳥時代、聖徳太子が生国魂神社の奇瑞を感じて、[[法案寺]]を創建、当社の別当となったとされる<ref>『真言密教聖典』48ページ</ref>。 | ||
『延喜式』「神名帳」には「難波坐生国咲国魂神社二座」として記載され、四時祭には「難波大社」と書かれた。 | 『延喜式』「神名帳」には「難波坐生国咲国魂神社二座」として記載され、四時祭には「難波大社」と書かれた。 | ||
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- | + | 近世、生玉十坊という10ケ寺の社僧があった。法案寺のほか、医王院、観音院、桜本院、新蔵院、遍照院、曼陀羅院(以上、参道北側)、地蔵院、覚園院、持宝院(以上、参道南側。生玉公園のあたり)があった。 | |
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- | + | 明治時代、神仏分離によって別当が廃止となった。社格制度が制定されると、知名度や規模を超えて、最高社格である官幣大社に列格したが、国土の神霊を奉斎し、天皇の即位儀礼に関係のある神社としての意義を認められたからだと思われる。 | |
==境内== | ==境内== | ||
- | + | *鴫野神社 | |
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+ | *鞴神社 | ||
+ | *[[生国魂神社行宮]] | ||
+ | *[[生国魂神社元宮跡]] | ||
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+ | *観音院 | ||
+ | *桜本院 | ||
+ | *新蔵院 | ||
+ | *遍照院 | ||
+ | *曼陀羅院 | ||
+ | *地蔵院 | ||
+ | *覚園院 | ||
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==参考文献== | ==参考文献== | ||
+ | *生国魂神社由緒書 | ||
+ | *『真言密教聖典』 | ||
*土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』 | *土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』 | ||
==脚注== | ==脚注== | ||
<references/> | <references/> |
2012年7月22日 (日) 時点における版
生国魂神社 いくくにたま じんじゃ | |
通称「生国魂造」の複雑な屋根を持つ本殿 | |
概要 | 日本の国土の神霊を祀る神社。 |
奉斎 | 生島神、足島神 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9 |
所在地(旧国郡) | 摂津国東成郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 式内社・名神大社・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社 |
関連記事 | 生国魂神社旧跡・国魂信仰 |
左下が本社 |
目次 |
概要
日本の国土の神霊を祀る神社。八十島祭と関わりあるらしい。
奉斎
- 生島大神
- 足島大神
- 相殿:大物主大神[1]
生島神、足島神は、日本の国土の神霊とされる[2]。『古語拾遺』に「生島。是、大八州の霊なり。今生島の巫の斎ひ奉れるなり。」(岩波文庫版 35P) とある。この神は古代、天皇即位の翌年に実施されていた八十島祭の主祭神であり、宮中の神殿にも祀られていた王権に関わる重要な神である。八十島祭は難波津の島々を日本列島と見做して、国土の神霊を祀り、国土の生成発展と治世の安泰を願う、一世一代の祭りである。
生島神については「共に生気満ち諸事足らざるなきを讃美する称辞」[3]といい、「生国魂神」と同一視され、足島神の「たる」は「事物の完全充足」を意味し、「足国魂神」「咲国魂神」と同一視されている。
本地は薬師如来とされる。
歴史
神武天皇が東征の際、難波津に上陸して祭ったのが創始とされる[4]。
伝説はともかく、生島神、足島神を祀る神社であるなら、八十島祭の祭場が起源だという見方もできるが、意外にもこの見解はあまり見られない。いずれにしても、古くは現在の大阪城辺りにあったらしい。
文献上の初出は、『日本書紀』「孝徳天皇紀」である。孝徳天皇は、当社の樹を伐採したため、「仏法を尊び、神祇を軽んじた」と評価された。樹の伐採は難波宮造営のためだと考えられている。
飛鳥時代、聖徳太子が生国魂神社の奇瑞を感じて、法案寺を創建、当社の別当となったとされる[5]。
『延喜式』「神名帳」には「難波坐生国咲国魂神社二座」として記載され、四時祭には「難波大社」と書かれた。
中世、石山本願寺が創建されたのは当社の隣地であり別当寺の法案寺の境内地だったという。法案寺は浄土真宗となり、 森祐光寺と称したが、別に南寺を建て別当を相続した。石山合戦で焼失し、大阪城の築城のため、現在地に遷座した。
近世、生玉十坊という10ケ寺の社僧があった。法案寺のほか、医王院、観音院、桜本院、新蔵院、遍照院、曼陀羅院(以上、参道北側)、地蔵院、覚園院、持宝院(以上、参道南側。生玉公園のあたり)があった。
明治時代、神仏分離によって別当が廃止となった。社格制度が制定されると、知名度や規模を超えて、最高社格である官幣大社に列格したが、国土の神霊を奉斎し、天皇の即位儀礼に関係のある神社としての意義を認められたからだと思われる。
境内
組織
生玉十坊
- 法案寺
- 医王院
- 観音院
- 桜本院
- 新蔵院
- 遍照院
- 曼陀羅院
- 地蔵院
- 覚園院
- 持宝院
画像
参考文献
- 生国魂神社由緒書
- 『真言密教聖典』
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』