ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

真宗大谷派函館別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(間の8版分が非表示)
1行: 1行:
-
'''真宗大谷派函館別院'''(しんしゅうおおたには・はこだて・べついん)は、北海道函館市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。旧称は'''浄玄寺'''。'''箱館御坊'''
+
[[ファイル:真宗大谷派函館別院001.jpg|thumb|500px| ]]
 +
'''真宗大谷派函館別院'''(しんしゅうおおたには・はこだて・べついん)は、北海道[[函館市]]にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。[[真宗大谷派江差別院|江差別院]]とともに[[松前・専念寺]]の支坊に起源する、前近代創建の古刹である。鉄筋コンクリートで造られた日本最初の本堂で、二尊を並べて祀る様式という。旧称は'''浄玄寺'''。'''箱館御坊'''。明治天皇行在所。東700mに[[本願寺函館別院]]がある。
-
松前専念寺の'''浄玄'''が寛文8年(1668)に現在の上磯郡木古内町内に支坊を開いたのが始まり。箱館が港として発展すると、宝永7年(1710)箱館に移転した。
+
== 歴史 ==
-
宝暦9年(1759)に公称許可を得て'''浄玄寺'''と称した。文政12年(1829)に火災で本堂焼失したが。天保9年(1838)に「北海道随一」と呼ばれる巨大な伽藍を再建。ペリーの日記にも記録がある。
+
*1668年(寛文8年):松前専念寺住職の'''浄玄'''が木古内(上磯郡木古内町)に支坊を開いたのが始まり。
 +
*1710年(宝永7年):港として発展した箱館に移転。
 +
*1759年(宝暦9年):公称許可を得て'''浄玄寺'''と称した。
 +
*1829年(文政12年):火災で本堂焼失
 +
*1838年(天保9年):「北海道随一」と呼ばれる巨大な伽藍を再建。壮大な伽藍はペリーの日記にも記録がある。
 +
*1854年(安政1年):日米和親条約で箱館が開港。本山[[東本願寺]]はこの地の教化を企図。
 +
*1858年(安政5年):東本願寺が浄玄寺を借り上げ'''箱館御坊'''とした。
 +
*1869年(明治2年):箱館戦争では、東本願寺は徳川家と近い立場にあることから箱館御坊は旧幕府軍の本陣となった。
 +
*1873年(明治6年):御坊は'''管刹'''と改称
 +
*1876年(明治9年)10月1日:制度改正で'''別院'''となった。
 +
*1876年(明治9年)7月:[[明治天皇]]の北海道行幸では行在所となった。
 +
*1879年(明治12年)12月:函館大火で焼失。すぐに仮堂が建てられたが、区画整理により移転を迫られた。別院では新たに計画された船見町の寺町でなく、[[キリスト教]]教会が並ぶ元町を新たな土地とした。
 +
*1889年(明治22年)8月1日:本山から管長'''大谷光勝'''刻の[[親鸞]]像を奉迎。
 +
*1890年(明治23年)10月:竣工。本尊と親鸞像を並べて祀る特殊な内陣様式を持つ本堂は、巨大で壮麗なものだった。
 +
*1907年(明治40年)8月:大火で再び焼失した。
 +
*1915年(大正4年):現在の本堂を再建。鉄筋コンクリートで造られた日本最初の本堂という。現在も二尊を並べて祀る様式が残されている。
 +
*1911年(明治44年):支院だった'''根室支院'''が独立して[[真宗大谷派根室別院|根室別院]]
 +
*1918年(大正7年):'''帯広支院'''が[[真宗大谷派帯広別院|帯広別院]]となった。
-
安政元年(1854)に日米和親条約で箱館が開港すると、本山[[東本願寺]]はこの地の教化を企図し、浄玄寺を借り上げ'''箱館御坊'''とした。箱館戦争では旧幕府軍の本陣となった。
+
2012年(平成24年)現在、'''千歳支院'''、'''船見支院'''、'''本町支院'''、'''海岸支院'''、'''東山支院'''がある。
-
明治6年、御坊は'''管刹'''と改称、さらに制度改正で9年10月1日に'''別院'''となった。同年7月の[[明治天皇]]北海道行幸では行在所となった。12年12月、函館大火で焼失。すぐに仮堂が建てられたが、区画整理により移転を迫られた。新たに設定された船見町の寺町でなく、キリスト教教会が並ぶ元町を新たな土地とした。22年8月1日、本山から大谷光勝刻の[[親鸞]]像が奉迎され、翌年10月に竣工した。本尊と親鸞像を並べて祀る特殊な内陣様式を持つ本堂は、巨大で壮麗なものだったが、明治40年8月の大火で焼失した。
+
==組織==
-
現在の本堂は焼失から8年後の大正4年(1915)に再建されたもので、鉄筋コンクリートで造られた日本最初の本堂という。
+
===住職===
 +
*大谷瑩潤(1890-1973)<>: 寺務総長17代。衆議院議員。
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
-
*木場明志監修、2012『別院探訪』
+
*木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
[[Category:北海道]]
[[Category:北海道]]

2024年4月27日 (土) 時点における版

真宗大谷派函館別院001.jpg

真宗大谷派函館別院(しんしゅうおおたには・はこだて・べついん)は、北海道函館市にある真宗大谷派別院江差別院とともに松前・専念寺の支坊に起源する、前近代創建の古刹である。鉄筋コンクリートで造られた日本最初の本堂で、二尊を並べて祀る様式という。旧称は浄玄寺箱館御坊。明治天皇行在所。東700mに本願寺函館別院がある。

目次

歴史

  • 1668年(寛文8年):松前専念寺住職の浄玄が木古内(上磯郡木古内町)に支坊を開いたのが始まり。
  • 1710年(宝永7年):港として発展した箱館に移転。
  • 1759年(宝暦9年):公称許可を得て浄玄寺と称した。
  • 1829年(文政12年):火災で本堂焼失
  • 1838年(天保9年):「北海道随一」と呼ばれる巨大な伽藍を再建。壮大な伽藍はペリーの日記にも記録がある。
  • 1854年(安政1年):日米和親条約で箱館が開港。本山東本願寺はこの地の教化を企図。
  • 1858年(安政5年):東本願寺が浄玄寺を借り上げ箱館御坊とした。
  • 1869年(明治2年):箱館戦争では、東本願寺は徳川家と近い立場にあることから箱館御坊は旧幕府軍の本陣となった。
  • 1873年(明治6年):御坊は管刹と改称
  • 1876年(明治9年)10月1日:制度改正で別院となった。
  • 1876年(明治9年)7月:明治天皇の北海道行幸では行在所となった。
  • 1879年(明治12年)12月:函館大火で焼失。すぐに仮堂が建てられたが、区画整理により移転を迫られた。別院では新たに計画された船見町の寺町でなく、キリスト教教会が並ぶ元町を新たな土地とした。
  • 1889年(明治22年)8月1日:本山から管長大谷光勝刻の親鸞像を奉迎。
  • 1890年(明治23年)10月:竣工。本尊と親鸞像を並べて祀る特殊な内陣様式を持つ本堂は、巨大で壮麗なものだった。
  • 1907年(明治40年)8月:大火で再び焼失した。
  • 1915年(大正4年):現在の本堂を再建。鉄筋コンクリートで造られた日本最初の本堂という。現在も二尊を並べて祀る様式が残されている。
  • 1911年(明治44年):支院だった根室支院が独立して根室別院
  • 1918年(大正7年):帯広支院帯広別院となった。

2012年(平成24年)現在、千歳支院船見支院本町支院海岸支院東山支院がある。

組織

住職

  • 大谷瑩潤(1890-1973)<>: 寺務総長17代。衆議院議員。

参考文献

  • 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E5%87%BD%E9%A4%A8%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール