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真宗大谷派竹鼻別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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真宗大谷派竹鼻別院(しんしゅうおおたには・たけはな・べついん)は、岐阜県羽島市にある真宗大谷派の別院。親鸞の木瀬の草庵を継承する。河野御坊。旧称は専福寺。(参考:同名寺院専福寺)
歴史
嘉禎元年(1235)、親鸞が関東から上洛するときに滞在した木瀬の草庵が起源とされる。三河国矢作の柳堂で説教を聞いた尾張国葉栗郡門間庄の河野通勝が同郷の8人とともに帰依して木瀬に草庵を立てて親鸞を招いたという。通勝ら9人は各地に道場を開き、河野九門徒と呼ばれ、濃尾地方の真宗の発祥とされる。
文明2年(1470)、本願寺8代蓮如が美濃に下向し、洪水で流出した木瀬の草庵を復興した。のち専福寺と称し、河野御坊と呼ばれた。数度の移転を重ねており、天正4年(1576)には正木村にあったが、のち厚見郡上川手村に移転。加納にも分裂した寺院ができた。
石山合戦では専福寺住職忍語が戦死している。教如に従い東西分立では東本願寺に付いた。慶長9年(1604)、竹鼻下町に移転し、12年(1607)、本山の掛所となった。宝暦10年(1760)現在地に移転した。
50年かけて諸堂を立て、天保4年(1833)に本堂が完成したが、明治24年(1891)の濃尾地震で壊滅的な被害を受けた。大正11年(1922)に本堂、3年後に山門を再建した。棟梁は東本願寺を再建した伊藤平左衛門だった。
明治9年に竹鼻別院と改称したところ、従来の住職は輪番となり、自坊を失う形となった。取り消しを求めて本山に訴えたところ、別に専福寺を再興することとなった(現在、南に隣接する専福寺がそれと思われる)。
参考文献
- 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部