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紅葉山東照宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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紅葉山東照宮の立面図。ほぼ同じ頃に建造された高良大社本殿と形状や寸法が類似するという。

紅葉山東照宮(もみじやま・とうしょうぐう)は、江戸城の紅葉山にあった東照宮。歴代将軍の霊廟もあった。徳川家の祭祀において日光東照宮と並ぶ最も重要な神社だった。現在の宮内庁庁舎北寄りから紅葉山御養蚕所にかけて広大な敷地を締めた。二の丸東照宮とは別。紅葉山御宮

東照宮と各霊廟は基本的に天台宗の僧侶により祭祀が行われていたが、文昭院廟のみは浄土宗の僧侶も祭祀に関与していたようだ。

目次

歴史

現在の皇居内の紅葉山(国土地理院空中写真より)
江戸城内図(部分)。江戸城本丸・桜田門・坂下門との位置関係が分かる
紅葉山絵図。上が北

徳川家康は紅葉山に北の丸から移して山王社を祀り江戸城の鎮守としたがまもなく隼町に奉遷した。この山王社はさらに移転して現在の永田町の日枝神社となっている。 また天神が祀られていたともいい、平河天満宮の起源とする説がある。 これらとは別に稲荷神社があったともいい、東京都内各地にある千代田稲荷神社と称する稲荷社がその後身ともいう。

徳川秀忠が東照宮を紅葉山に創建。1618年(元和4年)閏3月17日、仮殿を建て鎮座(続史愚抄)。同年4月17日正遷宮(続史愚抄)。 1622年、紅葉山東照宮とは別に天主台の下に本丸東照宮が鎮座。1635年、本丸東照宮は廃され浅草寺に遷されたが、この時点で二の丸東照宮が成立していたという(1637年に本格造営)。 秀忠の死後、その霊廟が建てられた。 1644年11月16日、紅葉山東照宮が修復され、正遷宮。翌日将軍社参。 1645年、東照大権現に宮号宣下。東照宮を称するのは厳密にはこの時以降。 家光は1651年に死去。 1653年、東照宮と秀忠廟の改造および家光廟の建立が計画され、 1654年(承応3年)9月16日、勅使を迎えて正遷宮(続史愚抄ほか)。この時、二の丸東照宮を合祀した。 翌日には家綱が参詣した。 ほぼ同じ頃、1655年に計画され、1661年に建造された高良大社本殿と形状や寸法が類似するという。 毎年4月17日には将軍が御三家・前田家・越前松平家・譜代大名らと共に参詣し紅葉山御社参と呼ばれた。 このとき、将軍は葡萄染精好の直垂を着用し、風折烏帽子をかぶって轅輿に乗り、随従の大名は烏帽子・大紋直垂を着用した。 毎月17日にも重臣の参詣があった。 紅葉山坊主が仕えた。 1642年(寛永19年)、三方楽所(宮中楽所南都楽所天王寺楽所)から数人ずつが移って紅葉山楽所が置かれた。 警備として紅葉山火之番が設置された。 紅葉山御宮御番は宝暦ごろ廃止。 法華八講が行われていたようだ

1868年(明治1年)4月8日、「御神体」と「御尊牌」を寛永寺に遷座。15日、寛永寺唯識院権現堂に仮に奉安した。 5月15日、「田安元屋敷」に「御尊像」と「御位牌」を遷座。精鋭隊が警護した。 のち東京を離れ、「遠州」に移ったらしいがその後、1920年(大正9年)頃、千駄ヶ谷の徳川公爵邸に遷座したという。(戊辰当時紅葉山引移に関する文書)現状は不詳。

既に社殿はカラとなっていたが1868年(明治1年)12月19日、朝廷は静岡藩に撤去を命じ、翌年3月から8月にかけて撤去されたという。 上野東照宮に石鳥居が移築されて現存する。 海雲寺山門として霊廟の門が移築されて現存。「東照大権現」の扁額が徳川宗家に伝わる。

この他1698年(元禄11年)頃、東照宮旧殿が寛永寺山王社に移されていたが明治に解体された。

社殿

紅葉山常憲院廟

紅葉山絵図によると東側から入るL字型の参道があり、入り口の御門の潜ると参道に右手に大猷院廟・厳有院廟・常憲院廟の3社が、左手に文昭院廟などがあった。階段を登ると一の鳥居があり、参道が右手に折れるがその階段の手前の左手に台徳院廟への入り口がある。階段登って参道を進むと二の鳥居がある。さらに勅額門を潜ると東照宮の社殿に至る。

  • 東照宮:本殿・拝殿の周囲を瑞垣が囲み正面に唐門があった。瑞垣の外にある御供所と廊下で接続していた。唐門の前には灯籠が1対あった。西側の区画には護摩堂・古御宮と「畳戸置所」3棟があった。また御供所の東にはやや離れて御神庫があった。
  • 護摩堂:本地堂とも。
  • 古御宮:護摩堂の隣にあった(紅葉山絵図)。紅葉山総絵図では鳥居が立つ。
  • 稲荷社:紅葉山絵図には記載がないが、紅葉山総絵図には東照宮と神庫の間に描かれる。鳥居が立つ。千代田稲荷神社と関係か。
  • 台徳院廟:2代徳川秀忠の霊廟。台廟。敷地の南隅にある。東面。御霊屋・拝殿の周囲を瑞垣が囲み正面に唐門があった。御霊屋の背後に御供所があった。湾曲した参道の手前に勅額門があり、階段を降りると御手水があった。入り口に二天門があった。
  • 大猷院廟:3代徳川家光の霊廟。猷廟。11代徳川家斉(文恭院)、13代徳川家定(温恭院)を合祀(紅葉山絵図)。10代徳川家治(浚明院)を合祀か(紅葉山絵図には記載なし)。東照宮参道の北側に大猷院廟・厳有院廟・常憲院廟の3社が並ぶ。3社をつなぐ小道もあった。基本的な構造は台徳院廟と同じで、御霊屋・拝殿の周囲を瑞垣が囲み正面に唐門があった。瑞垣の外にある御供所と廊下で接続していた。その下の段に勅額門があり、「泉水」と御手水があり、一番手前に二天門があった。「泉水」は紅葉山御宮御霊屋総絵図には「御池」とある。
  • 厳有院廟:4代徳川家綱の霊廟。厳廟。18歳で早世した徳川家基(孝恭院。10代徳川家治の長男)を合祀するとの記述もある(紅葉山絵図には記載なし)。大猷院廟の東隣に大猷院廟とほぼ同じ規格で建てられた(「泉水」はなし)。
  • 常憲院廟:5代徳川綱吉の霊廟。憲廟。8代徳川吉宗(有徳院)を合祀(紅葉山絵図)。厳有院廟の東隣に大猷院廟とほぼ同じ規格で建てられた(「泉水」はなし)。
  • 文昭院廟:6代徳川家宣の霊廟。文廟。7代徳川家継(有章院)、9代徳川家重(惇信院)、12代徳川家慶(慎徳院)、14代徳川家茂(昭徳院)を合祀する(紅葉山絵図)。いずれも増上寺に葬られた将軍である。そのため増上寺僧侶が詰めるための「増上寺休息所」が勅額門の脇に設けられていた。江戸城内図では文昭院廟、有章院廟(有廟)、惇信院廟(惇廟)が並び立っていたように図示されているが不正確な描写であり、文昭院廟のみが建てられ、他は合祀されたようだ。
  • 下御供所:御三家の装束所、輪王寺宮の休息所なども付属。
  • 紅葉山文庫:紅葉山宝蔵とも。

組織

僧侶や楽人のほか紅葉山宮番・紅葉山火之番・紅葉山御宮御霊屋付坊主・紅葉山御高盛坊主・紅葉山御宮付御縁頬坊主・紅葉山御霊屋付御縁頬坊主・紅葉山御掃除之者組頭・紅葉山御高盛六尺などがいた。坊主とあるのは大名に使える御城坊主のことで剃髪姿だが僧侶ではない。


紅葉山別当

  • 公央:伝法院。1722年(享保7年)6月3日就任。
  • 徳潤(1675-1750):凌雲院8世。姫路出身。播磨総社の社家の生。亮潤の弟子。1740年(元文5年)10月23日就任。
  • 光俊:凌雲院。姫路出身。徳心院と号す。1750年(寛延3年)9月23日就任。
  • 義順:静慮院。1754年(宝暦4年)6月29日就任。
  • 慈秀:覚王院。1772年(安永1年)3月24日就任。
  • 公副:真覚院。護法院か。1772年(安永1年)10月7日就任。
  • 公副:1773年(安永2年)2月29日再任。

「紅葉山御別当譜」[1]

  • 忠尊(?-1639):浅草寺別当。

資料

文献

  • 『文政雑記』「大納言様紅葉山御参詣次第」[2]:1829年(文政12年)9月。
  • 『文政雑記』「紅葉山御社参ニ付服穢定」[3]
  • 『天保雑記』「紅葉山御宮正遷宮」[4]:1834年(天保5年)9月。
  • 『天保雑記』「紅葉山下御門江紛入者御届」[5]:1835年(天保6年)4月。
  • 『天保雑記』「紅葉山御成供揃」[6]:1835年(天保6年)2月17日。
  • 『天保雑記』「松平伊予守家来紅葉山下御門江紛込之御届」[7]:1835年(天保6年)4月。
  • 『御城内紅葉山御加番』
  • 『御触書天保集成』「紅葉山御宮御霊屋等之部」23[8]、24[9]、25[10]
  • 『紅葉山八講五座問答注記』
  • 『紅葉山御宮御染筆八講之次第』[11]:紅葉山八講御法会日記。1745年(延享2年)。
  • 『諸例集』「日光・紅葉山・上野・増上寺山王之部」[12]
  • 『諸例集』「日光山・紅葉山・上野・増上寺・山王之部」[13]
  • 『諸御用留部類』「両山紅葉山之部」[14]
  • 『御勝手帳』「紅葉山御宝蔵構内檜杉二本伐取伺」[15]
  • 『御勝手帳』「紅葉山御祈祷僧善竜院外五ヶ院装束願」[16]
  • 『紅葉山神霊記』(『秘鎖叢書』所収)[17]:幕末か。
  • 『紅葉山神霊記』(『文鳳堂雑纂』所収)[18]
  • 『紅葉山神霊記』(『合一叢書』所収)[19]
  • 『紅葉山御宮御内陣並御幣殿御道具』[20]:1738年(元文3年)~1747年(延享4年)。
  • 『祠曹雑識』「紅葉山霊芝祥瑞」[21]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮御幣調進」[22]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山ヲ楓山ト称スル始」[23]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮草創」[24]
  • 『祠曹雑識』「寛永紅葉山御社参」[25]
  • 『祠曹雑識』「台徳院殿大猷院殿紅葉山両御仏殿」[26]
  • 『祠曹雑識』「二丸御宮紅葉山御遷宮」[27]
  • 『祠曹雑識』「儲君紅葉山御参詣ノ事」[28]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山火ノ番ノ始」[29]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山法華八講」[30]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山火之番支配」[31]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮御道具御風干帳」[32]
  • 『祠曹雑識』「紅葉山御宮御道具新帳」[33]
  • 『蠧余一得』「紅葉山御蔵沿革」[34]
  • 「紅葉山台徳院様御霊屋御修覆御用書付渡」[35]:1860年(万延1年)。
  • 「紅葉山東照宮献供奉幣式」『慈眼大師全集』[36]
  • 『千代田城大奥』「紅葉山大紋行列」[37]」行列のことについて詳しい
  • 『徳川礼典録』「将軍家紅葉山御参詣御行列」[38]
  • 「戊辰当時紅葉山引移に関する文書」[39]
  • 「紀伊家紅葉山予楽途中伴連の図」:『徳川盛世録』
  • 『紅葉山厳有院様御仏殿仕様帳』[40]
  • 「紅葉山総御霊屋江内府様行列ニテ御参詣之節御供御雇勤方絵図 坤」[41]
  • 「西丸様紅葉山御成記録」[42][43][44]
  • 「文政六未年九月八日紅葉山」[45]:1823年(文政6年)
  • 加藤千晶・重枝豊「高良大社の建築構成にみる藩における権現造の受容に関する一考察」

平面図

  • 「紅葉山図」[46]:もっとも詳細か。
  • 「紅葉山絵図」:紅葉山御宮御霊屋絵図。『徳川礼典録』所収[47]
  • 「紅葉山御霊屋御構絵図」:
  • 「江戸紅葉山霊屋図」:
  • 「紅葉山総絵図」:東京国立博物館蔵。[48]
  • 「紅葉山御宮御三仏殿之図」[49]
  • 「紅葉山御宮御霊屋惣絵図」
  • 「紅葉山御宮御霊屋略図」:
  • 「正徳四甲午六月改紅葉山惣指図」[50]:1714年(正徳4年)6月。
  • 「御城内紅葉山惣絵図」:東京都立図書館蔵[51]。1726年(享保11年)2月。『江戸城建築史料展覧会目録』には1717年(享保2年)とある。
  • 「紅葉山御見分之節御城内御道筋絵図」[52]:1781年(天明1年)。『江戸城建築史料展覧会目録』より。
  • 「紅葉山御宮四ケ所御仏殿絵図」[53]:『江戸城建築史料展覧会目録』より。文昭院廟がなく、常憲院廟が別紙で竣工前・竣工後の図を示していることから常憲院廟の建設時のものか。
  • 「紅葉山惣絵図」:1820年(文政3年)。『江戸城内并芝上野山内其他御成絵図』より[54]
  • 「紅葉山総絵図」:江戸東京博物館蔵。江戸時代後期。浚明院(10代徳川家治)の名まで記す。
  • 「紅葉山惣絵図」:江戸東京博物館蔵。江戸時代後期。文恭院(11代徳川家慶)の名まで記す。
  • 「江戸城紅葉山図」[55]:「楓山御廟屋」。
  • 「江戸城紅葉山図」[56]:「紅葉山向絵図」。上記と類似。
  • 「江戸城紅葉山御宮御霊屋勤方絵図」[57]
  • 「江戸御城内紅葉山総絵図」[58]:上記と類似。
  • 「紅葉山 御宮文政八酉年三月廿五日若君様御名代書勤方絵図」[59]:1825年(文政8年)。
  • 「紅葉山御仏殿図」[60]:敷地の形から厳有院廟か。
  • 「紅葉山図」[61]:他の霊廟の配置が異なるか。
  • 「紅葉山惣指図」[62]
  • 「紅葉山御宮御仏殿惣絵図」[63]:常憲院廟と文昭院廟の記載がなく、別紙で台徳院廟の改修後の張り紙がある。台徳院廟改修時の図とみられる。
  • 「紅葉山絵図」[64]:常憲院廟と文昭院廟の記載がない。
  • 「紅葉山絵図」[65]
  • 「もみじやま」[66]
  • 「紅葉山御祭礼覚絵図」[67]:没年月日、諡号などの覚え書きの絵図か。

江戸城図

  • 「江戸城内図」 [68]:江戸城全体図
  • 「江戸御城之絵図」[69]:江戸城全体図
  • 「江戸御城内向内曲輪共総絵図 」[70]:江戸城全体図
  • 「江戸御城総絵図」[71]:霊廟の配置が他と異なるか。
  • 「皇室御料地敷地図/宮城西之丸・山里・紅葉山」[72]:紅葉山の区画がまだ残っているか。

絵図

  • 「紅葉山御宮地割」[73]:紅葉山東照宮の立面図。
  • 「紅葉山御宮図」[74](画像なし):正面と側面の立面図のようだ。
  • 「紅葉山常憲院様有徳様御霊屋惣絵図建地割」[75]:建物の立面図。
  • 「徳川将軍紅葉山並御城外御行列之図」[76]:行列の絵巻
  • 「紅葉山御宮御霊屋棟札写」[77]:棟札の写し。
  • 「将軍家紅葉山御参詣御行列」『徳川礼典録』所収[78]:行列の図。
  • 「紅葉山厳有院様御手水鉢石」[79]
  • 「紅葉山大猷院様塀重御門」[80]

遺宝

  • 東照大権現扁額:「東照大権現」と記す。德川記念財団蔵。紅葉山東照宮の勅額と推定されている。書体は後水尾天皇宸筆と伝える日光東照宮奥社鳥居の勅額と同じとみられ、紅葉山東照宮の勅額御門に掲げられていたと推測される。(2014『大江戸と洛中』、個人ブログ[81]
  • 紅葉山東照宮扁額:德川記念財団蔵。1617年(元和3年)3月28日銘がある。詳細不明。(2014『大江戸と洛中』、図版なし)
  • 紅葉山鎮座稲荷額:德川記念財団蔵。1654年(承応3年)6月銘。紅葉山稲荷堂に掲げられていた絵。中央に普賢菩薩(狩野探幽筆)、左右に狐神(狩野安信・狩野常信筆)を描く。作者名は墨銘による。普賢菩薩は象に乗り、右手に剣を持つ。絵の裏に稲荷堂は1869年(明治2年)2月16日に和歌山徳川家に移されることになったとの記述がある。(2014『大江戸と洛中』、東京文化財研究所[82]、個人ブログ[83]
  • 紅葉山東照宮御簾:津山郷土博物館蔵。由緒書が付属。社殿内の神前に掲げられていた御簾。上部中央には日輪を中心に龍・麒麟・天馬・獅子の瑞獣の装飾がある。由緒書によると、美作国一宮中山神社の美土路信盈が江戸に下った際、1736年(元文1年)3月16日、浅草寺伝法院に伝わっていた本品を伝法院僧正から贈られたものという。2013年(平成25年)に発見された。(2014『大江戸と洛中』、津山瓦版[84]、東京文化財研究所[85]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE」より作成

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