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美作・誕生寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''誕生寺'''(たんじょうじ)は、岡山県久米郡久米南町にある、[[浄土宗]]開祖[[法然]]の生誕地に創建された寺院。[[浄土宗知恩院派]][[特別寺院]]。(参考:同名寺院[[誕生寺]]) | '''誕生寺'''(たんじょうじ)は、岡山県久米郡久米南町にある、[[浄土宗]]開祖[[法然]]の生誕地に創建された寺院。[[浄土宗知恩院派]][[特別寺院]]。(参考:同名寺院[[誕生寺]]) | ||
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建久4年(1193)に法力房蓮生([[熊谷直実]])が、法然自作の御影を奉じて来訪し、旧宅を寺院としたのが始まりとされる。法然誕生の時、西より二つの白幡が飛来し、椋の木の梢に引っかかり、7日後、どこかに飛び去ったという。その椋木は「二幡の椋」として本堂の左側にある。また菩提寺で修行を終えた法然が京都に旅立つ時にそこまで使ってきた杖を指したのが成長したという「逆木の公孫樹」がある。枝と根っこが逆さまに生えているとされる。 | 建久4年(1193)に法力房蓮生([[熊谷直実]])が、法然自作の御影を奉じて来訪し、旧宅を寺院としたのが始まりとされる。法然誕生の時、西より二つの白幡が飛来し、椋の木の梢に引っかかり、7日後、どこかに飛び去ったという。その椋木は「二幡の椋」として本堂の左側にある。また菩提寺で修行を終えた法然が京都に旅立つ時にそこまで使ってきた杖を指したのが成長したという「逆木の公孫樹」がある。枝と根っこが逆さまに生えているとされる。 | ||
御影堂、阿弥陀堂、観音堂があり、離れた場所に法然両親(漆間時国と秦氏)の墓である勢至堂がある。また奥の院として浄土院がある。 | 御影堂、阿弥陀堂、観音堂があり、離れた場所に法然両親(漆間時国と秦氏)の墓である勢至堂がある。また奥の院として浄土院がある。 | ||
- | 御影堂は1695年(元禄8年) | + | 御影堂は1695年(元禄8年)の再建で法然43歳の自作の御影(展墓の御影)を祀る。江戸時代には'''松仙恵風'''が入寺して、[[浄土律]]の寺院となった。 |
==組織== | ==組織== |
2020年12月23日 (水) 時点における版
誕生寺 たんじょうじ | |
概要 | 浄土宗宗祖法然の生誕地に創建された寺院。 |
奉斎 | 法然 |
所在地 | 岡山県久米郡久米南町里方808 |
所在地(旧国郡) | 美作国久米郡 |
所属(現在) | 浄土宗知恩院派 |
格式など | 浄土宗知恩院派特別寺院 |
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誕生寺(たんじょうじ)は、岡山県久米郡久米南町にある、浄土宗開祖法然の生誕地に創建された寺院。浄土宗知恩院派特別寺院。(参考:同名寺院誕生寺)
目次 |
歴史
建久4年(1193)に法力房蓮生(熊谷直実)が、法然自作の御影を奉じて来訪し、旧宅を寺院としたのが始まりとされる。法然誕生の時、西より二つの白幡が飛来し、椋の木の梢に引っかかり、7日後、どこかに飛び去ったという。その椋木は「二幡の椋」として本堂の左側にある。また菩提寺で修行を終えた法然が京都に旅立つ時にそこまで使ってきた杖を指したのが成長したという「逆木の公孫樹」がある。枝と根っこが逆さまに生えているとされる。
御影堂、阿弥陀堂、観音堂があり、離れた場所に法然両親(漆間時国と秦氏)の墓である勢至堂がある。また奥の院として浄土院がある。 御影堂は1695年(元禄8年)の再建で法然43歳の自作の御影(展墓の御影)を祀る。江戸時代には松仙恵風が入寺して、浄土律の寺院となった。
組織
住職
- 深誉
- 31漆間徳厳()<>:
- 漆間徳定(1869-1944)<1917->:播磨出身。1869年生。漆間徳厳の甥。旧姓は井上。1976年誕生寺で出家。1893年浄土宗大学高等正科卒。1895年専門科卒。浄土宗布教部長。如意輪寺住職。1913年、知恩院執事長。1917年誕生寺住職。1944年10月20日死去。檀蓮社旃誉滴阿松雨。琵琶歌、謡曲などを多数執筆。
- 漆間徳然(1944-2020)<1967-2020>:1944年生。1967年、仏教大学卒。同年7月、誕生寺住職。知恩院布教師。岡山教区長。2020年12月3日死去。76歳。廓蓮社證誉上人空阿松霞徳然慧興大和上。
参考文献
- 誕生寺ウェブサイト
- 『古寺名刹への道』
- 『法然と浄土宗教団』