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能登・本誓寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年12月30日 (土)

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'''本誓寺'''(ほんせいじ)は、石川県輪島市にある、能登国の最古・最大の[[浄土真宗]]寺院。[[真宗大谷派]]。 「'''阿岸本誓寺'''」「'''新巻山本誓寺'''」。
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'''本誓寺'''(ほんせいじ)は、石川県輪島市(能登国鳳至郡)にある、能登最古・最大の[[浄土真宗]]寺院。[[真宗大谷派]]。 「'''阿岸本誓寺'''」「'''新巻山本誓寺'''」。(参考:同名寺院[[本誓寺]])
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当寺は[[石動山]]系統の[[真言宗]]'''松岡寺'''であったが、承元元年(1207)、住職'''良禅'''が親鸞に出会い、文永5年(1268)は'''善了'''が[[本願寺]]2世の[[如信]]に帰依し、浄土真宗に改宗。「'''本誓寺'''」の号を下賜された。
 
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近くの阿岸郷(現・輪島市域)にあったが、中世末に現在地に移転した。
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== 歴史 ==
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江戸時代、加賀藩前田家の領内となり、鳳至郡106寺を統括する触頭となり、同じく触頭となった[[長福寺]]([[東本願寺]]末)、[[光徳寺]]([[西本願寺]]末)とともに能登を代表する真宗寺院となった。
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当初は[[石動山]]系統の[[真言宗]]'''松岡寺'''であったが、承元元年(1207)、住職'''良禅'''が親鸞に出会い、文永5年(1268)は'''善了'''が[[本願寺]]2世の[[如信]]に帰依し、浄土真宗に改宗。「'''本誓寺'''」の号を下賜された。
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もともと近くの'''阿岸郷'''新町分(現・輪島市門前町新町分)にあったが、中世末に1.6km西の現在地に移転した。
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江戸時代、加賀藩前田家の領内となり、鳳至郡106寺を統括する触頭となり、同じく触頭となった七尾の[[能登・長福寺]]([[東本願寺]]末)、[[能登・光徳寺]]([[西本願寺]]末)とともに能登を代表する真宗寺院となった。
現在の本堂は、寛政4年(1792)の造営。全国的にも珍しい巨大な茅葺きの堂宇で「日本三大茅葺」の一つとされる。幕末に京都貴族の[[二条家]]の'''五百姫'''が嫁いでいる。
現在の本堂は、寛政4年(1792)の造営。全国的にも珍しい巨大な茅葺きの堂宇で「日本三大茅葺」の一つとされる。幕末に京都貴族の[[二条家]]の'''五百姫'''が嫁いでいる。

2017年12月30日 (土) 時点における最新版

本誓寺(ほんせいじ)は、石川県輪島市(能登国鳳至郡)にある、能登最古・最大の浄土真宗寺院。真宗大谷派。 「阿岸本誓寺」「新巻山本誓寺」。(参考:同名寺院本誓寺


歴史

当初は石動山系統の真言宗松岡寺であったが、承元元年(1207)、住職良禅が親鸞に出会い、文永5年(1268)は善了本願寺2世の如信に帰依し、浄土真宗に改宗。「本誓寺」の号を下賜された。

もともと近くの阿岸郷新町分(現・輪島市門前町新町分)にあったが、中世末に1.6km西の現在地に移転した。 江戸時代、加賀藩前田家の領内となり、鳳至郡106寺を統括する触頭となり、同じく触頭となった七尾の能登・長福寺東本願寺末)、能登・光徳寺西本願寺末)とともに能登を代表する真宗寺院となった。 現在の本堂は、寛政4年(1792)の造営。全国的にも珍しい巨大な茅葺きの堂宇で「日本三大茅葺」の一つとされる。幕末に京都貴族の二条家五百姫が嫁いでいる。

五木寛之氏は『百寺巡礼』で北陸編の冒頭に当寺を据え、「真宗王国 能登の玄関」と評している。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%83%BD%E7%99%BB%E3%83%BB%E6%9C%AC%E8%AA%93%E5%AF%BA」より作成

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