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般舟院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1535年(天文4年)1月11日に亡くなった後柏原天皇中宮の豊楽門院藤子の葬儀は、同月23日、般舟院で行われた。 | 1535年(天文4年)1月11日に亡くなった後柏原天皇中宮の豊楽門院藤子の葬儀は、同月23日、般舟院で行われた。 | ||
同年2月18日には中陰法要が般舟院で行われたが、三鈷寺、二尊院、廬山寺の僧侶が出仕しており、皇室の追善全般が浄土宗西山派本山流により行われていた(「本山義の軌跡」)。このような経緯から御黒戸に関わるようになっていったのだろう。 | 同年2月18日には中陰法要が般舟院で行われたが、三鈷寺、二尊院、廬山寺の僧侶が出仕しており、皇室の追善全般が浄土宗西山派本山流により行われていた(「本山義の軌跡」)。このような経緯から御黒戸に関わるようになっていったのだろう。 | ||
+ | 1557年(弘治3年)11月25日、後奈良天皇の遺骨を深草法華堂と般舟三昧院に収めた。 | ||
天正年間、あるいは1594年(文禄3年)に千本今出川に移転。[[大歓喜寺]]の旧地を与えられたという。 | 天正年間、あるいは1594年(文禄3年)に千本今出川に移転。[[大歓喜寺]]の旧地を与えられたという。 | ||
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*「般舟三昧院文書」:東山御文庫所蔵史料 | *「般舟三昧院文書」:東山御文庫所蔵史料 | ||
*「般舟三昧院記」:「洛陽般舟三昧院記」とも。16世紀中頃。群書類従[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559234/62][http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879545/118] | *「般舟三昧院記」:「洛陽般舟三昧院記」とも。16世紀中頃。群書類従[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559234/62][http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879545/118] | ||
+ | *「泉涌寺般舟院御葬送御法事共惣御入用高先前之振合取調覚」:『奥野高広氏所蔵文書』 | ||
+ | *「泉涌寺般舟院五条橋其外諸色御入用」:『奥野高広氏所蔵文書』 | ||
+ | *「正親町院御中陰御法事記」:1593年(文禄2年)。 | ||
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2019年2月19日 (火) 時点における版
般舟院(はんじゅいん)は、京都府京都市上京区般舟院前町にあった皇室ゆかりの天台宗系・浄土宗系の寺院。宮中御黒戸の祭祀を担う「御黒戸四箇院」の一つで、泉涌寺と並ぶ皇室の菩提寺だった。中世、円密戒浄(天台・真言・戒律・浄土)の四宗兼学の寺院として発展。浄土宗西山派本山流の中心寺院の一つだったが、近世以後は天台宗延暦寺派の所属となり、2011年(平成23年)廃絶。多くの皇族を葬る般舟院陵が現存。般舟三昧院。山号は指月山。
目次 |
歴史
元は伏見にあった。現在の月橋院の地という。伏見殿に付属した仏堂だったらしい。 1479年(文明11年)12月、後土御門天皇の勅願で恵篤善空を招いて創建。 1517年(永正14年)9月、後土御門天皇忌を般舟院で覚雅を導師として営む。
1535年(天文4年)1月11日に亡くなった後柏原天皇中宮の豊楽門院藤子の葬儀は、同月23日、般舟院で行われた。 同年2月18日には中陰法要が般舟院で行われたが、三鈷寺、二尊院、廬山寺の僧侶が出仕しており、皇室の追善全般が浄土宗西山派本山流により行われていた(「本山義の軌跡」)。このような経緯から御黒戸に関わるようになっていったのだろう。 1557年(弘治3年)11月25日、後奈良天皇の遺骨を深草法華堂と般舟三昧院に収めた。
天正年間、あるいは1594年(文禄3年)に千本今出川に移転。大歓喜寺の旧地を与えられたという。
1755年(宝暦5年)8月22日、遣迎院、廬山寺、般舟院、二尊院の紫衣着用が認められたらしい(八槐御記)。 1867年(慶応3年)12月28日、孝明天皇一周忌を般舟院と泉涌寺で営む。
嘉楽門院の位牌があったが、現在は妙法院門跡宸殿にあるという。
伽藍
- 本堂
- 般舟院陵:
組織
歴代住職
- 1恵篤善空(1412-1492):廬山寺14世・二尊院13世。
資料
古典籍
- 「般舟三昧院」『古事類苑』[1]
- 「般舟三昧院文書」:東山御文庫所蔵史料
- 「般舟三昧院記」:「洛陽般舟三昧院記」とも。16世紀中頃。群書類従[2][3]
- 「泉涌寺般舟院御葬送御法事共惣御入用高先前之振合取調覚」:『奥野高広氏所蔵文書』
- 「泉涌寺般舟院五条橋其外諸色御入用」:『奥野高広氏所蔵文書』
- 「正親町院御中陰御法事記」:1593年(文禄2年)。
文献
- 川上貢1960「般舟三昧院について」『日本建築学会論文報告集』[4]
- 境淳伍1995「神仏分離と般舟院」『歴史研究』403