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讃岐国分寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
讃岐国分寺は、讃岐国阿野郡にあった、古代国分寺の一つ。高知県高松市国分寺町の現存寺一帯が跡地として確定しており、讃岐国府から北東約2kmに位置する。諸国国分寺の中でも大規模な寺院として知られる。遺跡の保存状態は良好で、国特別史跡に指定された三つの国分寺遺跡の一つ(他は常陸、遠江)。古代伽藍の一部が復元されている。現存寺は四国八十八所霊場第80番札所。讃岐国分尼寺跡は、北東約2kmの位置にある。
続日本紀の天平勝宝8年(756)の記事に記載があり、この時までは完成していたことが分かる。 現存寺に伝わる由緒では、行基が千手観音を祭って創建し、空海が中興したという。この現存寺本尊の、大型の十一面千手観音菩薩像は、平安時代の作と推測されている。永長元年(1096)に諸国国分寺に丈六の観音像を造って祀るように指示が出ていた記録が関白藤原師通の日記に残されており、関係が注目される。
現存寺には、平安時代初期に造られた梵鐘が伝わり、四国で現存最古とされるが、古代国分寺のものだった可能性もある。
出土状況から10世紀末から11世紀ごろには古代の姿を失ったとみられている。官寺としての讃岐国分寺は、このころ歴史の幕を下ろしたと言える。のち諸国国分寺復興を進めた西大寺の末寺になった。以来、真言宗寺院として現在まで続いている。
大官大寺式伽藍で南大門、中門、金堂、講堂、塔、僧房などがあったとみられる。昭和58年から本格的な発掘調査が始まり、東西220m、南北240mの寺域が確認された。金堂は東西27.8m、南北14.2mの規模を持った。講堂跡に現存寺の本堂が建ち、その前方に金堂の礎石33個が並んでいる。僧房は基壇の規模が東西約88m、南北約16mと全国最大級という。七重塔があったとみられる塔跡には、心礎と14個の礎石が残されている。
跡地では一部復元が行われている。高松市讃岐国分寺跡資料館も隣接する。
北東約1kmには国分寺鎮守だった国分八幡宮がある。北東約2kmの讃岐国分尼寺跡には、その伝統を継承する法華寺がある。また西南約1kmには国分寺と国分尼寺の瓦を焼いたとみられる府中山内瓦窯跡も見つかっている。