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金剛証寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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==資料== | ==資料== | ||
- | * | + | ===古典籍・史料=== |
- | * | + | *「朝熊山縁起」:『続群書類従』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1837667/185] |
- | + | *「朝熊嶽儀範」: | |
+ | *川口素道1994『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』 | ||
+ | ===近世地誌など=== | ||
*『神都名勝誌』「金剛証寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765768/35] | *『神都名勝誌』「金剛証寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765768/35] | ||
- | |||
*『伊勢参宮名所図会』「朝熊岳』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555629/30] | *『伊勢参宮名所図会』「朝熊岳』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555629/30] | ||
- | + | *常誉摂門『南勢雑記』「朝熊岳」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9569432/24] | |
- | + | *「朝熊嶽真景図」:池大雅筆。『大和文華』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7934599/5] | |
- | * | + | ===文献=== |
*野間圀彦1911『朝熊山小史』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765373] | *野間圀彦1911『朝熊山小史』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765373] | ||
- | + | *田辺三郎助1963「金剛証寺地蔵菩薩像についてー着装像の一例として」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4418830/14] | |
- | * | + | |
*西田長男1966「雨宝童子像管見(一)」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2274570/2] | *西田長男1966「雨宝童子像管見(一)」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2274570/2] | ||
- | |||
*奥出賢治1974「伊賀における雨宝童子影像」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2274586/30] | *奥出賢治1974「伊賀における雨宝童子影像」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2274586/30] | ||
*奥出賢治1982「雨宝童子像三躯について」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2274600/75] | *奥出賢治1982「雨宝童子像三躯について」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2274600/75] | ||
*児玉允1975「山嶽信仰における虚空蔵菩薩」[https://doi.org/10.4259/ibk.23.647] | *児玉允1975「山嶽信仰における虚空蔵菩薩」[https://doi.org/10.4259/ibk.23.647] | ||
+ | *成瀬不二雄1979「池大雅筆『朝熊嶽真景図』について」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7934599/26] | ||
+ | *成瀬不二雄1980「池大雅筆『朝熊嶽真景図』について(補遺)」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7934600/42] | ||
+ | *稲神和子1987『大和路・いせ路道標の旅』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576354/63] | ||
+ | *川口素道1988『朝熊岳概観史―金剛証寺の歩み』 | ||
+ | *川口素道1994『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』 | ||
+ | *佐野賢治2000「山中他界観の成立―伊勢朝熊山タケマイリを中心に」『虚空蔵信仰の仏教民俗学的研究―日本的仏教受容と土着化』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3183731/337] | ||
+ | *志村恭子他2000「伝統薬の継承2ー萬金丹」『三重県保健環境研究所年報』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11650656/1] | ||
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+ | ===経塚=== | ||
+ | *高橋健自1910「伊勢国朝熊山発掘の経筒」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3548148/32] | ||
+ | *岩出斎三郞1916「朝熊岳の経塚と家蔵の遺物」『考古学雑誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3548222/25] | ||
+ | *和田千吉1916「朝熊岳経塚に就て」『考古学雑誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3548222/32] | ||
+ | *奥村秀雄1969「朝熊山経塚出土の線刻阿弥陀三尊来迎鏡像をめぐって」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4429612/15] | ||
*稲垣晋也1988「三重県伊勢市朝熊山経塚発掘ノート―経塚の構造と造営次第」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4429840/18] | *稲垣晋也1988「三重県伊勢市朝熊山経塚発掘ノート―経塚の構造と造営次第」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4429840/18] | ||
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*荒木伸子1997「朝熊山経塚出土の扇―平安時代後期の扇の復元的考察」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4429939/23] | *荒木伸子1997「朝熊山経塚出土の扇―平安時代後期の扇の復元的考察」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4429939/23] | ||
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2022年10月12日 (水) 時点における版
金剛証寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳(伊勢国度会郡)の朝熊山にある虚空蔵信仰の臨済宗寺院。天照大神の化身とされる雨宝童子を祀る神社(雨宝童子社)がある。臨済宗南禅寺派。江戸時代は「禅密兼学」だった(伊勢参宮名所図会)。伊勢神宮の鬼門除けの寺院とされる。伊勢神宮式年遷宮の翌年に開帳。伊勢神宮関連旧跡。兜率院。山号は勝峰山。
目次 |
歴史
- 欽明天皇代:暁台が創建。
- 602年(推古10年):聖徳太子が仏舎利を埋納。
- 聖武天皇代:聖武天皇行幸。勅願所としたという。
- 825年(天長2年):空海が大和善根寺で求聞持法を修めた時、赤精童子が影向して託宣を下し、朝熊山に修行に赴いたという。この時、天照大神の16歳の姿を写した雨宝童子を感得したという。807年(大同2年)ともいう。真言宗となる。
- 1156年(保元1年):朝熊山経塚の最古の銘文の例。1186年(文治2年)のものまで確認されている。
- 1159年(平治1年):平治の乱で平氏の拠点となった伊勢に源氏勢が侵攻。金剛証寺も火を放たれた。
- 1392年(元中9年/明徳3年):東岳文昱は伊勢神宮に百日参籠で神託を受けて朝熊山に赴き金剛証寺を再興。臨済宗となる。
- 1585年(天正13年)11月:蒲生氏郷が敵が籠もる朝熊山を一時包囲したが戦火は免れた。
- 1613年(慶長18年):徳川家康、安堵状。
- 1616年(元和2年):越後高田藩主松平忠輝(徳川家康六男)、改易となり、朝熊山に配流。
- 1609年(慶長14年):本堂再建。岡山藩主池田輝政が寄進。
- 1630年(寛永7年):宍戸藩主秋田実季、改易となり伊勢配流。朝熊山麓の永松庵(金剛証寺末)に蟄居。
- 1724年(享保9年):碑文に「内宮外宮朝熊岳千日参」とあり、この頃、千日参が盛んとなる。
- 1803年(享和3年):本堂以外の多くの伽藍を焼失
- 1894年(明治27年):朝熊山経塚発見
- 1909年(明治42年)12月2日:経木堂焼失[1]。
- 1925年(大正14年)3月:朝熊山にケーブルカー開通。
- 1944年(昭和19年):軍の命令でケーブルカー撤去。
- 1959年(昭和34年):伊勢湾台風、倒木の跡から経塚が多数発見。
- 1962年(昭和37年):翌年にかけて経塚の発掘調査
伽藍・関連旧跡
- 本堂:本尊は福威智満虚空蔵大菩薩。摩尼殿。
- 開山堂:本尊は暁台・空海・東岳文昱。
- 仁王門:本尊は金剛力士。
- 雨宝童子社:祭神は雨宝童子。
- 観音堂:廃絶か。
- 文殊堂:廃絶か。
- 釈迦堂:廃絶か。
- 熊野拝所:廃絶か。
- 阿弥陀堂:廃絶か。
- 十三仏:廃絶か。
- 不動堂:廃絶か。
- 薬師堂:廃絶か。
- 大日堂:廃絶か。
- 経木堂:廃絶か。
- 明星堂:本尊は明星天子。三光天子。
- 奥之院:本尊は延命子安地蔵。呑海院が管轄。
- 住職墓地:「方丈墓」。
- 九鬼嘉隆墓:鳥羽城主九鬼嘉隆は11世明叟有昕に帰依。子の蓬雲有慶が金剛証寺12世となる。
- 御木本幸吉墓:
- 慶光院清順墓:慶光院3世。慶光院上人。
- 慶光院周養墓:慶光院4世。慶光院上人。
- 小川頼重墓:
- 経塚:1156年(保元1年)から1186年(文治2年)までの銘文を確認。1894年(明治27年)、老樹の根本から1173年(承安3年)銘の陶製経筒が出土。1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風の倒木から遺物発見。1962年(昭和37年)と1963年(昭和38年)に40基あまりを発掘調査。
- 八大龍王社:山頂付近にある。
- 庫蔵寺:鳥羽市河内町。本尊は虚空蔵菩薩。真言宗御室派。空海が金剛証寺創建の翌年に開いたという。金剛証寺の奥之院ともいう。山号は丸興山。
塔頭
江戸時代には真言宗の子院もあった。
- 望海院:高岳文徳の塔所。
- 孝源院:逸叟恵俊の塔所。
- 地福院:
- 呑海院:東岳文昱の塔所。呑海庵。奥之院を管轄。
- 普明院:廃絶。
- 瑞泉院:明仲恵防の塔所。廃絶。
- 観音院:廃絶。
- 方広院:明叟有昕の塔所。廃絶。法光院とも。
- 明王院:廃絶。江戸時代は真言宗。
- 与楽院:廃絶。
- 妙光院:廃絶。
- 才屋院:廃絶。
- 虎渓院:廃絶。江戸時代は真言宗。
- 瑞応院:廃絶。
組織
住職
- 1東岳文昱(?-1416)<1392->:建長寺71世。円覚寺61世。大拙文巧の法嗣。寿福寺、円覚寺、建長寺に住す。1339年(暦応2年)茂原応徳寺を創建?。1392年(元中9年/明徳3年)、金剛証寺を再興。1414年(応永21年)、上杉朝宗が建てた鎌倉徳泉寺の開山となる。1416年(応永23年)2月23日、建長寺岱雲庵で死去。金剛証寺では命日を5月28日とする。塔所は金剛証寺呑海院、建長寺岱雲庵、円覚寺富陽庵、東漸寺成願院。諡号は仏地禅師。富陽庵に墓塔と彫像が現存。東嶽文昱。
- 2高岳文徳(1362-1431)<>:鳥羽円照寺の開山。1362年(正平17年/貞治1年)生。1431年(永享3年)3月12日死去。70歳。
- 3明仲恵防(1397-1444)<>:1444年(文安1年)2月22日死去。48歳。明仲惠昉。
- 4日庵恵析(1399-1465)<>:1465年(寛正6年)7月25日死去。67歳。日庵惠圻。
- 5思玄恵忖(1404-1486)<>:1486年(文明18年)10月29日死去。83歳。
- 6惟鑑恵澄(1451-1504)<>:1504年(永正1年)5月15日死去。54歳。惟鑑恵証。
- 7心空恵有(1480-1527)<>:1527年(大永7年)11月15日死去。48歳。
- 8逸叟恵俊(1483-1545)<>:1545年(天文14年)4月12日死去。63歳。逸叟有俊。
- 9仁翁有允(?-1561)<>:1561年(永禄4年)8月4日死去。仁翁有充。
- 10忠英有恕(1535-1576)<>:1576年(天正4年)11月6日死去。42歳。
- 11明叟有昕(1539-1617)<>:中興。建長寺末から南禅寺末とする。九鬼嘉隆の帰依を受けた。1617年(元和3年)7月7日死去。79歳。
- 12蓬雲有慶(1580-1624)<>:九鬼嘉隆の三男。1624年(寛永1年)12月21日死去。45歳。
- 13瑞林寿祥(1572-1629)<>:1629年(寛永6年)7月1日死去。58歳。
- 14弘叔清忍(1580-1640)<>:1640年(寛永17年)6月22日死去。61歳。
- 15大仲寿誕(1615-1681)<>:1681年(天和1年)9月10日死去。67歳。
- 16天外恵天(1637-1685)<>:1685年(貞享2年)8月17日死去。49歳。
- 17木禅恵真(1645-1724)<>:1724年(享保9年)5月15日死去。80歳。
- 18春林文韶(1686-1726)<>:1726年(享保11年)5月11日死去。41歳。
- 19乾峰祖龍(1674-1741)<>:1741年(寛保1年)4月12日死去。68歳。
- 20玉堂祖珉(1688-1759)<>:1759年(宝暦9年)1月16日死去。72歳。
- 21香峰祖薫(?-1796)<>:南禅寺306世。1796年(寛政8年)5月13日死去。
- 22水岩恵暾(?-1791)<>:1791年(寛政3年)8月6日死去。水巌恵暾。
- 23玉潭慧琢(?-1811)<>:1811年(文化8年)7月13日死去。
- 24大器恵成(?-1830)<>:1830年(天保1年)5月20日死去。
- 25聯渓恵芳(?-1857)<>:1857年(安政4年)1月4日死去。
- 26楞山支曇(?-1868)<>:1868年(明治1年)12月6日死去。
- 27大徹道林(1828-1911)<>:南禅寺327世。勝峰大徹。南禅寺派2代管長。1911年(明治44年)3月16日死去。
- 28寛宗恵隆(?-1901)<>:1901年(明治34年)2月26日死去。
- 29睿州恵聡(1850-1925)<?-1917>:勝峰恵聡。南禅寺執事長。1925年(大正14年)7月1日死去。76歳。
- 30静雲()<1917->:勝峰静雲。1917年(大正6年)、金剛証寺住職[2]。
「金剛證寺歴代」[3]
資料
古典籍・史料
- 「朝熊山縁起」:『続群書類従』[4]
- 「朝熊嶽儀範」:
- 川口素道1994『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』
近世地誌など
文献
- 野間圀彦1911『朝熊山小史』[9]
- 田辺三郎助1963「金剛証寺地蔵菩薩像についてー着装像の一例として」[10]
- 西田長男1966「雨宝童子像管見(一)」[11]
- 奥出賢治1974「伊賀における雨宝童子影像」[12]
- 奥出賢治1982「雨宝童子像三躯について」[13]
- 児玉允1975「山嶽信仰における虚空蔵菩薩」[14]
- 成瀬不二雄1979「池大雅筆『朝熊嶽真景図』について」[15]
- 成瀬不二雄1980「池大雅筆『朝熊嶽真景図』について(補遺)」[16]
- 稲神和子1987『大和路・いせ路道標の旅』[17]
- 川口素道1988『朝熊岳概観史―金剛証寺の歩み』
- 川口素道1994『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』
- 佐野賢治2000「山中他界観の成立―伊勢朝熊山タケマイリを中心に」『虚空蔵信仰の仏教民俗学的研究―日本的仏教受容と土着化』[18]
- 志村恭子他2000「伝統薬の継承2ー萬金丹」『三重県保健環境研究所年報』[19]