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長崎県護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年3月24日 (日)
長崎県護国神社(ながさきけん・ごこくじんじゃ)は、長崎県長崎市にある、県内の戦没者などを祀る招魂社。官祭招魂社の梅ケ崎招魂社と佐古招魂社を前身とする。内務大臣指定護国神社。別表神社。
目次 |
歴史
- 1868年(明治1年)12月5日:大徳寺跡(梅香崎神社(天満宮)が残る)の一画に、長崎裁判所総督の沢宣嘉が楠木正成を祀る長崎・大楠神社を創建。現在の大徳寺公園の地。(全国護国神社一覧など)
- 1868年(明治1年)12月26日:大楠神社で振遠隊(17名??)の招魂祭を行う。振遠隊墓地を大楠神社脇に設ける。(森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- 1869年(明治2年)6月14日:23柱合祀か
- 1869年(明治2年)12月:長崎県知事野村盛秀が発起して、大楠神社に振遠隊員戦没者44柱を合祀。招魂社となる。(『靖国神社百年史』・森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- ?日:長崎病院(現・佐古小学校の地)で招魂祭
- 1875年(明治8年)5月:官祭梅ケ崎招魂社となる。(『靖国神社百年史』)
- 1875年(明治8年)3月22日:稲荷嶽に佐古墓地を開設(現在の仁田小学校の近辺。墓地は現存)。
- 1877年(明治10年):佐古墓地に招魂社創建。(森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- 1879年(明治12年):長崎病院拡張のため、梅ケ崎招魂社墓地の遺骨の一部を、佐古招魂社墓地に改葬。遺骨の処理をめぐってトラブルあり。
- 1883年(明治16年)?:梅ケ崎招魂社墓地を全て、佐古招魂社墓地に改葬。(森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- 1883年(明治16年):梅ケ崎招魂社移転か。鳥居は現在も大徳寺公園に残る。
- 1883年(明治16年)10月14-16日:佐古招魂社で勅祭。侍従北条氏参向。
- 1889年(明治22年)7月12日:梅香崎招魂社で祭典執行。長崎県書記官・兵事課長が参拝。警部長、長崎大隊区副官、長崎砲兵分遣隊長など参列。(官報[1])
- 1939年(昭和14年)4月:「梅ケ崎護国神社」、「佐古護国神社」と改称か(森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- 1942年(昭和17年)3月10日:両社が合併し、内務大臣指定の「長崎県護国神社」となる。11/15か(森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- 1944年(昭和19年)10月:城山の新社殿に遷座。(森幸雄「護国神社を事例とする、都市のシンボル的施設に対するイメージの変遷」)
- 1945年(昭和20年)8月9日:原爆により焼失。市外長与町の岩渕神社に遷座。のち長崎市大崎神社に遷座(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1949年(昭和24年)1月22日:梅ケ埼招魂社跡地に仮殿をたて遷座祭。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)10月22日:合祀概了奉告臨時大祭。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年):長崎県護国神社再建奉賛会。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1961年(昭和36年)4月23日:幣帛。長崎行幸。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1962年(昭和37年)4月:起工式。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1963年(昭和38年)10月25日:本殿遷座祭。幣帛。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1965年(昭和40年)10月22日:終戦20周年臨時大祭。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1966年(昭和41年)11月23日:奉賛会解散。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1966年(昭和41年)7月1日:別表神社加列。
- 1969年(昭和44年)10月26日:昭和天皇・皇后行幸。臨時奉幣大祭。(『全国護国神社会二十五年史』)
組織
歴代
- 佐藤秀夫
- 横川初男
- 岡保夫()<-2019>:2019/11/30退任
- 村田仁()<2019->:皇学館大学卒。2019/12/1就任。