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高声寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2015年2月22日 (日) 時点における版
高声寺は、茨城県坂東市にある、浄土宗鎮西派藤田流(廃絶)の実質的な本山だった寺院。下総国猿島郡。藤田流開祖の性心が正応元年(1288)に創建。江戸時代初期に白旗流に吸収されたと思われる。江戸時代、20世貞誉が貞享元年(1684)に現在地に移転した。平将門旧跡ともされる。 「高聲寺」「藤田山道場院高声寺」「岩井高声寺」「藤田高声寺」。現在は浄土宗知恩院派。
当地の地名を藤田といい、藤田流の語源となったという俗説があるが誤りで、藤田の名は性心の生地の地名であり、藤田流の拠点となったので、藤田と呼ばれるようになったと思われる。
性心は、性真、聖真とも表記し、唱阿、性阿とも号す。武蔵国藤田郷領主の藤田利貞の子で、はじめは天台宗を学び、のち良忠に師事した。当寺創建後、故郷に帰り、藤田善導寺を創建したという。
当寺開創については、平将門にまつわる伝説がある。性心が巡錫の途中、当地にとどまったところ、夜な夜な大きな呻き声が聴こえて、これが将門の冤罪を訴える声であったことから、平将門の霊を慰めるために、当寺を創建し「高声寺」と命名したとするのである。
歴代住職は、1性心、2持阿、3持名、4唱名、5利覚、6良岌、7岌法、8岌伝、9岌光、10岌善、11岌泰、12岌念と伝わっているが、20世は白旗流の誉号を持つ貞誉であり、彼のときに当初の中根から1km南東の現在地に移転しており、21世の覚誉のときに、元禄8年(1695)、『浄土宗全書』の「飯沼弘経寺志」に同寺末として「被召御講」とあることから、このころ、白旗流に転属し、東9kmにある関東十八檀林の一つ飯沼弘経寺(茨城県常総市)末となったと思われる。同書には当寺の末寺80寺が挙げられている。
将軍の葬儀に必ず会葬(出仕はせず参列のみということか?)したという(『猿島郡郷土大観』(昭和2年))。近代には知恩院末になっていた(同)。戊辰戦争官軍の山口藩戦没者の田中利一の墓がある。
藤田流は、糸魚川善導寺の岌翁が中世に知恩院との総本山争いをする京都知恩寺に招かれて住職となり、同寺の権威を背景に流派の勢力拡張を図るが、各寺は江戸時代初期に白旗流に転属して藤田流は消滅した。知恩寺を中心とした藤田流の再編がうまく行かなかった要因としては、本山であったはずの高声寺から知恩寺住職を出せなかったこともあったのではないだろうか。知恩寺は、当寺はもちろん、人脈上近かったはずの会津下越地方の中心寺院であった高巌寺も末寺にすることはできなかった。
参考文献
- 藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」
ほか