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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

天宥旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年9月18日 (水)

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天宥(1593-1674)は羽黒山中興。真言宗僧侶だったが、天海に接近して天台宗に改宗。出羽・寂光寺も真言宗から天台宗に改宗させたが、山内の激しい反発を買い争論となって流罪となった。

略歴

宥俊の弟子。もと「宥誉」と称した。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。石工が巧みで、手向の六字橋、東照社の手水舎、荒沢の鳥居、須賀の滝を造営。また玉川寺の庭園を造営したという。1641年(寛永18年)、江戸で天海に謁して、「天宥」と称す。1661年(寛文1年)、宥俊の死去を受けて、執行を兼ねる。出羽三山全山を羽黒山の支配下に置こうとするが、湯殿山の抵抗にあって実現しなかった。1668年(寛文8年)4月、伊豆大島に遠島となるが、実際には伊豆新島に流された。同地で死去。以後、三山執行別当には、寛永寺の高僧が兼任するようになり、羽黒山の独立性は弱まった。宝前院と号す。

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