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出羽・寂光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年8月10日 (土)
寂光寺(じゃっこうじ)は、出羽国田川郡にあった出羽三山・羽黒山の天台宗寺院。(参考:同名寺院寂光寺)
組織
羽黒山執行
「羽黒山修験道要略」による。「羽黒山修験広法灌頂伝持血脈」(「伝持血脈」)も参照。号は「伝持血脈」による。
- 蜂子皇子(562-641):崇峻天皇皇子。聖徳太子の従兄弟に当たる。崇峻天皇暗殺に際して東北に落ち延びたと言われる。能除太子と同一視される。1823年(文政6年)8月、寛永寺を通じて朝廷より「照見大菩薩」の諡号を賜る。神仏分離に伴い、1874年(明治7年)2月7日、神号を「蜂子命」と定められた。
- 弘俊:蜂子皇子の弟子。皇極天皇1年に初代執行になったとされる。尊法坊と号す。
- 忍慶:大光坊
- 行善:理本坊
- 直酋:会部坊。「伝持血脈」では真西。
- 源慶:越前坊。「伝持血脈」では深慶。
- 行覚:理円坊。
- 弘弁:聖泉坊。
- 秀慶:下総坊。
- 宗祐:善教坊。
- 覚俊:密蔵坊。
- 行栄:総持坊。
- 良弁:山城坊。
- 行栄:総持坊。再任。
- 行承:形部坊。「伝持血脈」では行円。
- 明春:加賀坊。
- 宗慶:永真坊。「伝持血脈」では泉慶。
- 盛慶:三河坊。
- 了覚:了学坊。「伝持血脈」では宗円。
- 乗円:伊豆坊。
- 承宗:佐渡坊。「伝持血脈」では永宗。
- 隆快:播磨坊。
- 禅盛:甲斐坊。
- 盛煕:空耶坊。
- 常久:暹永坊。
- 長豪:大耶坊。
- 金薩:実蔵坊。
- 広宗:式部坊。
- 長豪:大耶坊。再任。
- 盛酋:永泉坊。「伝持血脈」では盛酉。
- 泉慶:永金坊。
- 重盛:義宗坊。「伝持血脈」では重増。
- 慶善:朝泉坊。
- 慶宗:伊勢坊。「伝持血脈」では慶実。
- 宗春:三河坊。
- 永泉:二位坊。
- 蔵賢:薬師坊。
- 慶海:延命坊。
- 盛永:沢内坊。
- 永慶:沢内坊。
- 慶尊:宝前坊。
- 永慶:華蔵坊。沢内坊とは別人?
- 慶俊:初めて別当を兼任した三山執行。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。別当を兼任する。以後、別当は三山執行の兼職となる。再任。宝前坊、光明院と号す。
- 元慶:薩摩坊。
- 源慶:空照坊。
- 尊良:宝性院。
- 慶俊:再任。
- 宥源(-1617)<>:慶俊の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。宝前院と号す。
- 源慶(-1618)<1617-1618>:「羽黒山修験道要略」「伝持血脈」に記載なし。「出羽三山史年表」に記載。
- 宥俊(1573-1661)<1618-1661>:宥源の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。最上義光の死後、帰還を果たした。宝前院と号す。
- 天宥(1593-1674)<1661-1668>:中興。宥俊の弟子。もと「宥誉」と称した。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。石工が巧みで、手向の六字橋、東照社の手水舎、荒沢の鳥居、須賀の滝を造営。また玉川寺の庭園を造営したという。1641年(寛永18年)、江戸で天海に謁して、「天宥」と称す。1661年(寛文1年)、宥俊の死去を受けて、執行を兼ねる。出羽三山全山を羽黒山の支配下に置こうとするが、湯殿山の抵抗にあって実現しなかった。1668年(寛文8年)4月、伊豆大島に遠島となるが、実際には伊豆新島に流された。同地で死去。以後、三山執行別当には、寛永寺の高僧が兼任するようになり、羽黒山の独立性は弱まった。宝前院と号す。
- 純応:覚樹院。「羽黒山修験道要略」に記載なし。「伝持血脈」に記載。
近世の羽黒山執行
- 1668年(寛文8年)から輪王寺宮の命で任命。別当または別当代が職責を果たす。寛永寺僧が務め、赴任しなかったものが多い。
- 主に戸川安章「出羽三山史年表」より。
歴代 | 別当 | 別当代 | 生没年 | 在職年 | 号 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
52 | 圭海 | 1668-1675 | 尊重院 | 宝樹院(徳川家綱の生母)の弟という。元は「月窓」と称した日蓮宗僧侶という。毘沙門堂公海の弟子。寛永寺浄円院に住す。愛宕山長床坊に転じる。 | ||
(圭海) | 圭純 | 1668-1675 | 円鏡院 | 「出羽三山史年表」には記載なし。 | ||
53 | (輪王寺宮) | 実胤 | ?-1677 | 1675-1677 | 寿命院 | |
54 | (輪王寺宮) | 円海 | 1677-1677 | 明光院 | ||
55 | 胤海 | 1677-1682 | 凌雲院 | 天海の弟子。寛永寺学頭。寛永寺凌雲院。「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任。伯耆大山の大山寺学頭4世。 | ||
(胤海) | 周海 | 惣持院 | 「出羽三山史年表」には記載ないが「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任の別当代とする。 | |||
56 | (輪王寺宮) | 良諶 | 1683-1684 | 覚前院 | ||
57 | 公雄 | 1684-1691 | 円覚院 | 「別当別当代一覧」では1689年(元禄2年)退任のように記す。 | ||
(公雄・義天) | 照寂 | 1684-1692 | 和合院 | |||
58 | 義天 | 1691-1699 | 仏項院 | 義天以後は覚諄まで羽黒山に下向せず。「別当別当代一覧」では1692年(元禄5年)就任。 | ||
(義天) | 光海 | 1692-1699 | 心地院 | |||
59 | 智舟 | 1699-1705 | 願王院 | 寛永寺明王院。著書に『台宗二百題』。「別当別当代一覧」では「智周」とする。 | ||
(智舟) | 存海 | 1699-1705 | 理善院 | 「別当別当代一覧」では「祐存」とする。 | ||
60 | 貫通 | 1705-1709 | 楞伽院 | 「別当別当代一覧」では「貫道」とする。 | ||
(貫通) | 了堂 | 1705-1709 | 大乗院 | |||
61 | (輪王寺宮) | 弁海 | 1709-1719 | 智妙院 | 「別当別当代一覧」では1710年(宝永7年)就任とする。「出羽三山史年表」では退任年を記さない。 | |
慈永 | 1719-1720 | 霊山院 | 善光寺大勧進に転任(75世の慈泉か)。「出羽三山史年表」では就任年を記さない。就任年は「別当別当代一覧」による。 | |||
62 | (輪王寺宮) | 智英 | ?-1721 | 1720-1721 | 施徳院 | 病死。「別当別当代一覧」では「知英」とする。「別当別当代一覧」では1719年(享保4年)就任とする。 |
63 | (輪王寺宮) | 亮天 | 1721-1730 | 性源院 | 「別当別当代一覧」では1720年(享保5年)就任とする。 | |
64 | (輪王寺宮) | 可道 | 1730-1739 | 久遠院 | ||
65 | (輪王寺宮) | 覚泉 | 1739-1741 | 霊光院 | ||
66 | (輪王寺宮) | 弁宥 | 1741-1747 | 正光院 | ||
67 | (輪王寺宮) | 諄慶 | ?-1759 | 1747-1759 | 医王院 | 病死。 |
68 | (輪王寺宮) | 智印 | 1759-1766 | 智願院 | 「別当別当代一覧」では「知印」とする。 | |
69 | (輪王寺宮) | 亮豊 | 1766-1775 | 戒光院 | ||
70 | (輪王寺宮) | 義詮 | 1775-1782 | 得禅院 | 辞任後2年間、別当代任命されず。 | |
71 | (輪王寺宮) | 義俊 | 1784-1788 | 成満院 | 「別当別当代一覧」では1782年(天明2年)就任とする。 | |
72 | (輪王寺宮) | 官惇 | ?-1791 | 1788-1791 | 化城院 | |
73 | (輪王寺宮) | 義研 | 1791-1808 | 篤行院 | ||
74 | (輪王寺宮) | 亮明 | 1808-1811 | 慈心院 | ||
75 | 覚諄 | ?-1847 | 1811-1825 | 深達院 | 羽黒山中興。権僧正。越前勝山の出身。平泉寺で得度。日光山医王院より転住。山内の支持を得て、諸改革の実行を成功させた。1820年(文政3年)、本社再建を実現。さらに1823年(文政6年)、社号を「出羽神社」とし、正一位の神階授与、「照見大菩薩」号下賜を実現した。「別当別当代一覧」では1813年(文化10年)就任とする。荘厳院、深達院、摩訶衍院と号す。 | |
76 | 山海 | 1784-1853 | 1825-1836 | 楞伽院 | 日光山藤本院から転任。世良田長楽寺を経て善光寺大勧進に転住。(略歴は善光寺大勧進#組織を参照) | |
77 | 覚音 | ?-1842 | 1836-1842 | 光明院 | 日光山医王院から転任。「別当別当代一覧」では1837年(天保8年)就任とする。 | |
78 | (輪王寺宮) | 実円 | 1842-1846 | 隆信院 | 延暦寺常光院に転じる。「出羽三山史年表」では別当代とするが、「別当別当代一覧」では1843年(天保14年)就任の別当とする。 | |
79 | 澄海 | ?-1864 | 1846-1861 | 龍王院(海龍王院) | 日光山龍光院から転任。権僧正。手向蓮台寺に隠居。「別当別当代一覧」では1847年(弘化4年)就任とする。 | |
80 | 官田 | ?-1872 | 1861-1870 | 霊山院(霊鷲院) | 寛永寺福聚院から転任。出羽国村山郡出身。立石寺弟子。権僧正。1870年(明治3年)10月還俗して「羽黒宝前」と名乗る。出羽神社社司となる。 1872年(明治5年)死去。 |