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本念寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年12月29日 (水)
本念寺は石川県羽咋市川原町にある浄土真宗寺院。院家。真宗大谷派。隣接する羽咋神社の神宮寺が起源という。山号は北方山。
1207年(承元1年)、羽咋神社別当職の正栄が親鸞に帰依し、白鳳寺を改称して本念寺としたという。天文年間には石山本願寺に出仕。戦国時代末には加賀・弘願寺から住職を迎えて加賀の門徒とも団結して地位を向上させた。 石山合戦では織田信長との講和に反対する教如を支持。東本願寺に属した。 東西分派で大和の名刹の飯貝本善寺を退去した顕珍が本念寺に入り、子の宣証は院家として入寺した。本念寺は本善寺代として取り立てられ一家衆に列した(ただし東本願寺末では本善寺の名は加賀・本善寺に引き継がれた)。羽咋郡東方の触頭となった。 1648年(慶安1年)隠居所として酒見村に柳線院(柳泉寺)を創建した。
廃絶した能登・青龍寺の梵鐘(1566年(永禄9年))を所蔵。 また神仏分離・廃仏毀釈で降ろされた立山芦峅寺講堂の旧本尊とされる阿弥陀如来像が伝わる。 (日本歴史地名大系ほか)
組織
歴代住職
(顕珍から彰憧まで真宗年表より)
- 正栄()<1207->:羽咋神社別当。1207年(承元1年)親鸞に帰依したという。
- 了祐()<>:文明年間、蓮如から親鸞絵像の追記裏書を得た。
- 堅勝()<>:加賀・弘願寺7世明勝の次男。
- 1顕珍(?-1610)<>:佐継。教行寺3世証誓の長男。飯貝本善寺3世証珍の猶子となり本善寺の後継者となった。東西分裂で養父証珍が西本願寺に従ったが、顕珍は東本願寺教如に仕えたため退去。能登本念寺住職に迎えられた。1610年(慶長15年)2月10日死去。子に船場御坊5世教珍、本念寺2世宣証。
- 2宣証(?-1663)<>:従佐。顕珍の子。1663年(寛文3年)9月29日死去。
- 3宣誓(?-1693)<>:従辰。1648年(慶安1年)隠居所として酒見村に柳線院(柳泉寺)を創建した。1693年(元禄6年)1月25日死去。
- 4常誓(?-1720)<>:晴辰。1720年(享保5年)9月5日死去。
- 5一誓(?-1746)<>:海辰。1746年(延享3年)8月31日死去。
- 6真誓(?-1751)<>:性辰。1751年(宝暦1年)3月14日死去。
- 7真証(?-1747)<>:性佐。1747年(延享4年)9月24日死去。
- 8真淳(?-1784)<>:性慧。1784年(天明4年)2月23日死去。
- 9乗淳(?-1803)<>:遍佐。1803年(享和3年)10月11日死去。
- 10乗澄(?-1837)<>:朗界。1837年(天保8年)7月36日死去。
- 11遅同(?-1871)<>:朗通。1871年(明治4年)5月2日死去。
- 12達義(?-1851)<>:勝智。1851年(嘉永4年)6月18日死去。
- 13厳同(?-1862)<>:1862年(文久2年)8月10日死去。
- 14厳誓(?-1905)<>:勝辰。1905年(明治38年)7月27日死去。
- 15厳誓(?-1940)<>:瑩辰。1940年(昭和15年)9月28日死去。
- 16彰憧(?-1969)<>:演辰。1969年(昭和44年)1月21日死去。