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琉球・龍福寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年1月5日 (日)

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浦添龍福寺-01.jpg

龍福寺(りゅうふくじ)は、沖縄県浦添市仲間にあった琉球王朝ゆかりの臨済宗寺院。琉球最古の寺院。歴代王統の菩提寺としての役割を担った。本尊は文殊菩薩。現在の市立浦添中学校の校庭南西端のあたりだという。廃絶。元は極楽寺と言った。山号は天徳山。後身寺院が沖縄市にある。沖縄仏教琉球王朝の国家祭祀も参照。(参考:同名寺院龍福寺

歴史

琉球王朝の臨済宗5カ寺
  • 咸淳年間(1265-1274):禅鑑(生没年不詳)が浦添城の西側に創建。補陀洛山極楽寺と称した。英祖王が建てたともいう。
  • 尚巴志代(1422-1439):前谷(跡地不詳)に移転。のち火災で衰退。
  • 成化年間(1465-1487):芥隠承琥(?-1495、南禅寺僧、琉球・円覚寺開山)を開山に迎えて再興。天徳山龍福寺と改称した。
  • 1609年(慶長14年)4月1日:鹿児島藩島津家が侵攻し、浦添城と龍福寺を焼き払った。舜天王などを描いた硯屏(衝立)や文殊菩薩像は避難した。
  • 1620年(泰昌1年・元和6年)頃:尚寧王の命で修復。文殊菩薩像、英祖王統、察度王統、尚思紹王、尚巴志王や歴代の妃の硯屏を仏殿に安置。西壇に尚寧王、「向氏具志頭按司朝騎先祖」の位牌、東壇に「向氏羽地按司朝維先祖」の位牌が祀られた。
  • 1644年(順治1年・正保1年)9月:尚賢王、普天間宮参詣の帰りに龍福寺に参詣し、初めて拝祭を行った。
  • 1688年(康熙27年・元禄1年):文殊菩薩像を修復。
  • 1701年(康熙40年・元禄14年):稲福親雲上盛時が絵図・指図の奉行に就任。
  • 1728年(雍正6年・享保13年):王府、天孫氏・尚忠・尚泰久・尚思達・尚金福・尚徳などの位牌を奉安。
  • 1729年(雍正7年・享保14年):12石下賜
  • 1730年(雍正8年・享保15年):春秋仲月に先王法要を行う。
  • 1731年(雍正9年・享保16年):春秋法要・五節・朔望などに王府が行香の礼などを行うことが恒例化
  • 1755年(乾隆20年・宝暦5年):位牌の昭穆(配列)扁額・掛床の校正を行う。
  • 1793年(乾隆58年・寛政5年):文殊菩薩像を補彩
  • 1760年(乾隆25年・宝暦10年):山号を補陀洛山に改称
  • 1792年(乾隆57年・寛政4年):台風で被災
  • 1845年(道光25年・弘化2年):尚育王、王府祭礼を再開
  • 1884年(明治17年):龍福寺は尚家の廟寺として尚泰の私有財産となる。
  • 1909年(明治42年)頃:廃寺となる。建物は那覇市泊に移築されたというがその後、どうなったのかは不明。
  • 1913年(大正2年):兼城村座波(糸満市座波)に再興。妙心寺派となる。
  • 1924年(大正13年):美里村泡瀬(沖縄市泡瀬)に移転。
  • 1945年(昭和20年):沖縄戦で焼失。
  • 戦後:復興

(日本歴史地名大系ほか)

資料

  • 『琉球国由来記』
  • 『球陽』
  • 長間安彦1994「龍福寺御焼香の次第について」『浦添市立図書館紀要』6
  • 上江洲安宏 2017「沖縄の仏教」[1]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E3%83%BB%E9%BE%8D%E7%A6%8F%E5%AF%BA」より作成

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