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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

興福寺禅定院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年12月3日 (日)

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禅定院は、平城京にあった法相宗寺院。廃絶。興福寺の子院。元は元興寺の子院。本尊は弥勒如来(「興福寺諸堂縁起」)。元興寺の東側にあった。のち大乗院門跡に吸収された。興福寺関連旧跡元興寺関連旧跡。鎮守は瑜伽神社、高畑天神社。(参考:同名寺院禅定院

歴史

興福寺僧で元興寺別当を務めた成源(1004-1058)が元興寺の子院として創建した。元興寺別院だった禅院寺の後身ともいう。 早くから興福寺の支配下にあったらしく大乗院開山の隆禅が2代となり、以後、大乗院院主が禅定院を兼務した。 大乗院2世の頼実が永久年間(1113-1117)に禅定院伽藍を造営している。 治承4年(1180)の南都焼討で、現在の奈良県庁あたりにあった大乗院門跡が焼失すると、翌年、大乗院4世の信円(1153-1224)が禅定院に住むようになり、禅定院は興福寺内に擬せられた。 やがて大乗院に吸収されたとみられるが、名目上は禅定院も存続していた形になっていたようだ。 大乗院となった禅定院は宝徳の土一揆で焼失。その後、尋尊が再建した。

参考文献

  • 『南都七大寺の歴史と年表』
  • 「旧大乗院庭園の調査」[1]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E7%A6%85%E5%AE%9A%E9%99%A2」より作成

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