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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

諸興寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年8月12日 (水)

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諸興寺(しょこうじ)は、岡山県倉敷市木見にあった修験道寺院。本尊は薬師如来五流尊瀧院の奥之院。新宮諸興寺龍岩諸興寺称光寺とも。五流尊瀧院関連旧跡熊野速玉大社に擬せられた。倉敷・熊野神社瑜伽寺と共に新熊野三山とされた。山号は神蔵山?、新熊野山。

歴史

761年、新熊野神社と同時に役小角高弟の義学が熊野新宮に当たる諸興寺を創建したという(五流伝記略)。頼仁親王墓の近くにあったと思われる。 実際の創建年代は不明だが、延暦寺西塔長寿坊の薬仁という僧が1098年閏9月7日に『瑜祇経西決』という書を「備前州児島諸興寺」で記しており(同書奥書)、1098年までには諸興寺が確かに創建されていたことが分かる。

五流尊瀧院を中興した頼仁親王は死後、諸興寺に葬られたという。 1704年の『備前記』にはわずかに草庵の堂があると記し、本尊は薬師如来で、他に阿弥陀堂があり、また毘沙門天を祭り、熊野三山を写して新宮に当てると記す。 『備陽国誌』(江戸中期)には「廃寺」の項目に掲載されている。 『長床縁由興廃伝』には残っていた薬師堂と阿弥陀堂も元禄年間(1688-1704)には壊れてしまったとある。『備前記』の記述となる調査直後に廃絶したのだろう。

(日本歴史地名大系、岡野浩二「聖教奥書からみた僧侶の往来」ほか)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AB%B8%E8%88%88%E5%AF%BA」より作成

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