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勝興寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年10月24日 (火)

越中・勝興寺から転送)
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勝興寺は、富山県高岡市伏木古国府(越中国射水郡)にある浄土真宗寺院。越中の浄土真宗の拠点。蓮如ゆかり。土山御坊安養寺御坊。現在の境内は越中国府跡とされる。 全国屈指の巨大本堂が特徴で、多くの文化財を有する。越中触頭として隆盛を誇った。 (参考 同名寺院勝興寺_(同名)安養寺

目次

由緒

由緒によると、蓮如が1471年(文明3年)に近松御坊を出て、北陸に向かい、加賀二俣御坊に滞在した後、越中国砺波郡蟹谷庄土山にて一坊を建立した。これが土山御坊、のちの勝興寺の起源である。

しかし、実際には以下のように考えられている。本願寺6代の巧如の次男の如乗は、室町時代に瑞泉寺に下り、北陸布教の拠点とした(のち加賀本泉寺に移り住んだ)。如乗は、土山に寺院を建立したのが始まりという。如乗の死後、土山御坊は内室の勝如尼の自坊となったが、 のち如乗の娘婿で加賀本泉寺を継承した蓮如三男の蓮乗は、土山御坊に実弟の蓮誓を迎え、さらに瑞泉寺以外の坊主衆を土山御坊の与力とさせたという。 [1]

歴史

土山御坊旧跡 上:順徳天皇陵 下:佐渡勝興寺開基・彦成親王墓伝承地(このあたりに佐渡勝興寺があったと思われる)

中世

1494年(明応3年)に高木場(南砺市高窪)に移転。蓮誓は次男実玄に土山御坊を譲った。1517年(永正14年)に順徳天皇の勅願で、その皇子彦成王(善空房信念)が親鸞に帰依して創建した「殊勝誓願興行寺」(佐渡勝興寺)の寺号を継承し、「勝興寺」と称す。しかし、守護大名富樫政親に焼き討ちされて、1519年(永正16年)に小矢部安養寺に移る。ここで城郭のような伽藍をつくる。この年、勝興寺実玄は、本来、傍系の「一家衆」になるはずが特例で格上の「一門衆」に列せられた。これによって瑞泉寺とともに越中の中心寺院であることが明示された。

しかしながら、越中の浄土真宗は、加賀本泉寺の支配下にあった。ところが、1531年(享禄4年)、本泉寺など本願寺勢力と地元門徒の内乱で、本願寺勢力が敗退すると、越中の真宗教団は、加賀の支配を抜けて、独立した。

1546年(天文15年)、小矢部南蟹谷にある松尾神社の知行を買い取り、領主的地位を築き始める。 1560年(永禄3年)本願寺が准門跡になったのに合わせて、勝興寺も院家となった。

織田信長は石山合戦で和睦したのにもかかわらず、石黒成綱に命じて焼き討ち。織田信長死後の不安定な情勢の中、治安安定を目論む佐々成政の要請により、1584年(天正12年)、古国府城の寄進を受け、現在地に移転(まもなく佐々成政は豊臣秀吉に降伏)。

近世

1585年(天正13年)、前田利家が領主となると、勝興寺に庇護を与えた。1588年(天正16年)には50石の寺領を与えた。

前田家との関係を強め、1618年(元和4年)、75石に加増。さらに越中の浄土真宗西本願寺の末寺の触頭となった。 1768年(明和5年)に11代藩主となった前田治脩は、勝興寺の僧であった。

通坊(つうぼう)や掛所などと呼ばれる出張所も設置された。1598年(慶長3年)、石動の門徒の要請により石動通坊が設置された(平成23年廃絶)。 また蓮如建立とされる動清水精舎も通坊とされ、陀羅尼寺村(現・富山市上栄)から富山城下に移転し、市街地の中心の一画を担った。この通坊は、明治の大教宣布運動のなかで、廃絶となり、富山県中教院となった。現在、勝興寺支坊・正興寺が残っている。

境内

  • 本堂:現在の勝興寺本堂は、1795年(寛政7年)に前田治脩の寄進により建てられたもので、1760年(宝暦10年)造営の京都西本願寺本堂を模範としている。全国屈指の大規模本堂である。真宗寺院は江戸時代中期から建て替えに伴い、規模を拡大し、内部を荘厳化する傾向にあるが、その特徴を顕著に表している。
  • 御内仏:寺族専用の仏堂。
  • 御霊屋:前田治脩、前田斉広の霊を祀る。

京都興正寺から移築された唐門や、式台門、書院、大広間などがある。

組織

歴代住職

  • 住職は蓮如および前田家の系譜を継ぐ土山(どやま)家。佐渡勝興寺の歴代は伝説的なもの。
  • 『雲龍山勝興寺系譜』[1]および『高岡市雲龍山勝興寺・文化財デジタルアーカイブ』「勝興寺住職表」[2]を基にした。
  • 「当山歴代住職等書上」「勝興寺歴代住職経歴等書上帳」があるらしい。
世数 法名 院号 生没年 在職年 略歴
1 信念 善空房 1219-1286 順徳天皇皇子。彦成王。1219年(承久1年)生。1286年(弘安9年)3月22日死去。67歳。墓所は西三川陵墓参考地
2 信興 信念の子。
3 了信 信興の子。
4 信浄 了信の子。早世。
5 信源 信浄の子。早世。
蓮如 兼寿 信証院 1415-1499 1471年(文明3年)、富山県南砺市土山に土山御坊を開く。
6 蓮乗 兼鎮 曠晴院 1446-1504 1477-1479 蓮如次男。生母は如了(1424-1455)。1446年(文安3年)生。幼名は光養丸。幼い頃は南禅寺喝食だった。加賀・本泉寺越中・瑞泉寺土山御坊に住す。1477年(文明9年)兼務をやめ勝興寺専任住職となる。北陸道7国法頭とされる。1479年(文明11年)病気のため加賀若松に隠居。1504年(永正1年)2月21日死去。59歳。法印権少僧都。室は本泉寺如乗(蓮如の叔父)の娘の如秀。御影画が現存[3]
7 蓮誓 康兼 光宣院、光闡坊 1455-1521 1479-? 蓮如四男。生母は如了(1424-1455)。1455年(康正1年)生。幼名は光玉。土山御坊光教寺を継承。運源寺を創建。1479年(文明11年)蓮如の命で勝興寺住職となる。この時、下間右京、下間源五郎を家司とする。1481年(文明13年)徳成寺を創建。1494年(明応3年)高木場村に勝興寺を移転。光教寺に隠居。1521年(大永1年)8月7日死去。67歳。法印権大僧都。室は正親町持季娘の寿光院如専。御影画が現存[4]
8 実玄 兼芸 光信院 1486-1545 ?-1545 蓮誓次男。本願寺9世実如の猶子。生母は寿光院如専。証如の外祖父。1486年(文明18年)(1479年(文明11年)とも)生。幼名は光菊。1509年(永正6年)5月8日、実如を制札を下し、同年8月3日、北国の本寺・録所と定めたという。信念創建の勝興寺の寺籍を継いだのはこの時という。1519年(永正16年)2月焼失。安養寺村に移転。同年、本願寺が一門一家制度を定めると共に一代限りの一門身分となった。1531年(享禄4年)の享禄錯乱で父を支持せず本願寺側に就く。1545年(天文14年)3月15日死去。60歳(67歳とも)。墓所は火灯山(富山県小矢部市末友)。権律師。室は顕証寺蓮淳(蓮如の六男)娘の明信院妙勝。御影画が現存[5]
玄宗 教芸 広闇院 1514-1555 1545-1555 実玄の次男。1508年(永正5年)生。兄の証玄(1506-1525)が早世したため1545年(天文14年)継承。証宗と改名。病気のため弟の顕栄に譲る。1555年(弘治1年)5月20日死去。48歳。室は顕証寺実淳の娘。
9 顕栄 佐計 光原院 1509-1584 1555-1584 実玄の三男。本願寺顕如の猶子。母は妙勝。1509年(永正6年)生。初名は慶栄(教栄、芸乗とも)。顕栄と改名。1555年(弘治1年)継承。1559年(永禄2年)、本願寺が門跡になると共に、院家・法印大僧都となる。1568年(永禄11年)からの神保長職勢と戦いで中心的な役割を果たす。1581年(天正9年)に伽藍を焼かれ、本願寺に寄寓。1584年(天正12年)12月1日、貝塚で死去(1580年(天正8年)12月1日または2日というのは誤りか)。70歳。墓所は火灯山(富山県小矢部市末友)。室は三条西実隆の娘で細川晴元の養女の如勝。御影画が現存[6]
10 顕幸 佐廉 恭信院 1555-1604 1584-1604 顕栄の長男。本願寺顕如の猶子。母は如勝。1555年(弘治1年)生。1584年(天正12年)継承。現在地に再建。1604年(慶長9年)7月28日死去。50歳。古国府廟所に埋葬。法印権大僧都。室は朝倉義景娘の清心院佐妙(?-1603)。御影画が現存[7]
11 顕称 佐尤 唯称院 1578-1638 ?-1638 教行寺賢超の子。顕幸の養子。室は顕幸娘。1578年(天正6年)生。京都方広寺大仏殿の供養の時、本願寺代理として出仕した。1609年(慶長14年)3月、富山通坊が焼失。1638年(寛永15年)4月14日死去。61歳。法印大僧都。唯照院とも。室は顕幸娘の唯心院法妙。御影画が現存[8]
12 准栄 昭宗 1598-1613 ?-1613 顕幸の末男。顕称の養子。母は佐妙。1598年(慶長3年)生。1613年(慶長18年)2月8日死去。16歳。
13 准教 昭見 信誉院 1601-1644 ?-1644 顕称の長男。母は法妙。1601年(慶長6年)生。1608年(慶長13年)准如が関東下向の帰りに勝興寺を訪問。この時、7月4日得度免許。准教の名を授けられ、さらに准如娘との婚約が定められ、「連枝の座配を進め」たという。1644年(正保1年)9月7日死去。44歳。法印律師。室は本願寺准如娘の亮周院良明(1615-1701)。
14 良昌 円周 光昌院 1625-1681 1646-1681 本願寺12世准如の六男。昭見の養子。1625年(寛永2年)生。1646年(正保3年)4月16日入寺。興正寺独立問題に際し本願寺良如の代理として江戸に下向し幕府に訴え、本願寺の主張が認められた。この時、幕府により黒印地が朱印地に格上げが伝えられたが辞退した。1681年(天和1年)4月2日死去。57歳。法印大僧都。室は横山長治娘で前田利常養女の玉玲院広喜。
15 寂聖 常栄 賢隆院 1652-1709 ?-1709 良昌の長男。1652年(承応1年)(1651年(慶安4年)とも)生。1709年(宝永6年)閏8月23日死去。59歳(53歳とも)。法印律師。室は前田季明(四辻公理三男、前田利政外孫、前田利家側室隆興院養子)娘の清簾院教信。
16 寂了 常昌 知周院 1691-1714 ?-1714 寂聖の長男。母は教信。1691年(元禄4年)生。住職が幼年であることを機に富山蓮照寺などが与力寺を背く企てを起こすが失敗。1714年(正徳4年)5月7日死去。24歳。法橋律師。
17 住諦 澄元 広開院 1712-1742 1718-1742 本徳寺寂宗の次男。寂了の養子。1712年(正徳2年)生。1718年(享保3年)11月28日、入寺。1726年(享保11年)2月得度・「禁宮免許」。本願寺16世湛如に仕えて京都にいることが多かった。1742年(寛保2年)12月21日死去。31歳(32歳とも)。法橋権律師。室は寂聖末女の栄正院貞幹。
18 法暢 闡真 太梁院 1745-1810 1756-1768 前田家11代前田治脩。1745年(延享2年)生。藩主前田吉徳の八男(十男とも)。幼名は尊丸。1746年(延享3年)4月28日、勝興寺住職に内定。1756年(宝暦6年)閏11月2日、勝興寺に移る。1761年(宝暦11年)3月14日得度、連枝の順序を定める。1768年(明和5年)(1769年(明和6年)2月とも)還俗。1769年(明和6年)以来、前田家から毎年500石を寄贈されることになる。1771年(明和8年)家督相続11代藩主となる。1810年(文化7年)1月7日死去。死後、位牌が勝興寺に納められた。
19 法薫 闡郁 摂受院 1758-1831 1770-1831 本願寺17世法如の十男(長男?)。本願寺18世文如の兄。1758年(宝暦8年)生。1770年(明和7年)9月23日入寺。、法暢が幕府および金沢藩の意向で還俗して藩主を継いだため、その代償として「格上」の人物を継承者として充てがったとみられる。1773年(安永2年)寺務を補佐するため本願寺から下間宰相が下向。1774年(安永3年)本堂再建。本願寺への功績から本願寺内での杖の使用を許可された。1831年(天保2年)9月29日死去。73歳(74歳とも)。法印権大僧都。室は前田恒箇(家老の一族)娘の知光院芳明(前田治脩養女)。御影画が現存[9]
20 本成 摂常 寂静院 1804-1834 1831-1834 法薫の長男。1804年(文化1年)生。1817年(文化14年)11月10日得度。准連枝となる。12月連枝となる。1834年(天保5年)3月7日死去。31歳。法眼。室は鷹司政煕娘の蓮生院広悟(修子。諧子?)。死後、無住期間は本願寺より村井内蔵助が派遣され寺務を行う。御影画が現存[10]
21 本歓 摂喜 得聞院 1836-1838 本照寺16世。本願寺19世本如の次男。1836年(天保7年)12月、勝興寺住職。1838年(天保9年)3月隠退。1822年(文政5年)9月21日本照寺に住職。
22 広済 沢流 宝性院 1800-1854 1837-1854 前田直棣。藩士前田直養の三男。1800年(寛政12年)生。1811年(文化8年)藩主御目見。1815年(文化12年)元服。1837年(天保8年)2月24日勝興寺に入寺。1838年(天保9年)2月3日得度。1854年(安政1年)10月4日死去。55歳。法眼。室は伊藤正延娘で前田斉泰養女の玉露院清皎。
23 土山広輝 沢映 金剛院 1845-1905 西本願寺執行長。広済の子。1845年(弘化2年)生。1905年(明治38年)2月24日死去。61歳。権少教正。妻は本徳寺大谷昭順(広浄)娘の玉瓏院妙寿。土山沢映。御影画が現存[11]
24 土山尊弘 慧力院 1862-1916 本徳寺昭順(広浄)の子。1862年(文久2年)生。1916年(大正5年)1月18日死去。55歳。
25 土山瑞映 明樹院 ?-1963 土山尊弘の子。1947年(昭和22年)名誉侍真。1963年(昭和38年)11月11日死去。68歳。尊光。
26 土山准性 誠教院 1912-1985 本覚寺波多野尊照の子。妻は土山瑞映娘の瑤子(真誠院了瑤)。1912年(大正1年)生。1985年(昭和60年)1月27日死去。74歳。
27 土山照慎 阿部文郎の子。

資料

  • 東四柳史明「戦国期越中本願寺教団と勝興寺」[12]
  • 見瀬和雄「勝興寺と前田家?近世統一政権の成立と勝興寺」
  • 高木秋生「戦国大名が注目した一向宗の拠点勝興寺」
  • 『高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ』[13]

脚注

  1. 以上、東四柳史明による。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8B%9D%E8%88%88%E5%AF%BA」より作成

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