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鞍馬寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月5日 (日)

鞍馬山から転送)
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鞍馬寺(国土地理院空中写真より)

鞍馬寺(くらまでら)は、京都府京都市左京区にある、毘沙門天信仰天台宗系の本山寺院鞍馬弘教の総本山。空也良忍ゆかりの浄土教の聖地。鎮守由岐神社がある。境内の経塚から多くの遺物が見つかっている。鞍馬蓋寺(あんばがいじ)ともいう。

目次

由緒

鞍馬山・貴船周辺(国土地理院空中写真より)

鑑禎による創建

鑑真の弟子に鑑禎という僧がいた。鞍馬寺ではこの人物を唐僧の思託に充てている。770年(宝亀1年)1月4日の寅の日、唐招提寺にいた鑑禎は、山背国に霊地があるとの霊夢をみた。そこに行こうとしたが、ある村まで来て日が暮れた。そこからは紫雲がたなびいているのがみえた。翌日、紫雲が現れた場所まで来たが、霊地がどこか分からず、休息のうちに眠り込んだ。すると夢に老僧が現れ、翌朝の日の出を見よと告げた。夜が明けると、ある山の上に宝の鞍を着けた白馬が出現したので、その山まで赴いた。すると鬼が現れたが、神呪を唱え、巨木を倒して殺すことができた。翌朝、そこに毘沙門天の像が出現したので、草庵を建てて祀った。これが鞍馬寺の始まりという。

平安遷都2年後の796年(延暦15年)、藤原伊勢人(いせんど)という貴族が持仏の観音像を祀る堂の建設を考えていたところ、老僧や夢に出現。霊山に伽藍を立てよと託宣した。白馬に託してその山を探したところ、鞍馬山にたどり着いた。そこには毘沙門天を祀る小さな堂があった。そこに大きな伽藍を建設。四十二臂の観音を彫り、毘沙門天と共に祀った。藤原伊勢人は造東寺長官を務め、東寺造営に貢献した。

鞍馬弘教が伝える魔王尊の降臨

戦後に立教された鞍馬弘教では鑑禎からさらに遡り、現代から650万年前に金星から魔王尊が降臨したのが起源としている。

2代管長の信楽香仁によると、「天も地もすさまじい音をたてた。数知れぬ火の粉がばらばらと降ってきた。大空には巨大な焔のかたまりが、炎々と燃えさかりながら渦を巻いている。そのなかから、白熱の透きとおる物体が回転しながら舞いおりてきた。さしずめUFOの襲来というところであろうが、実は、これは焔の君たちの天車である。宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣された大魔王尊が、このとき地球の霊王として鞍馬山上に天下ったのである。六百五十万年前の出来事という」とある(『古寺巡礼 京都 鞍馬寺』淡交社、以下同書)。降臨したのは奥之院の磐座だったという。

この魔王尊とは悪魔の首領ではなく「あらゆる魔障を征服し屈従させて善魔に転向させる大王」であり、「転迷開悟・破邪顕正のお力を授けてくださる守護神」とされる。さらに「地下空洞の支配者」でもあり、「地下空洞には大都会があり、北欧とヒマラヤと南米と日本の四カ所に地表へ通ずる出入口をもち、日本の通路は鞍馬山にあるといわれている」という。そして「鞍馬山からは、たえず魔王尊の強力な霊波が放射されていた。後日そのすばらしい霊波をみごとに受診したのが、鑑禎上人である」として鑑禎創建の縁起につなげている。

歴史

平安時代

寛平年間、東寺の峰延という僧が鞍馬寺にやってきてそのままいついた。伊勢人の孫の峰直は彼を認め、根本別当として寺を任せた。峰延は雌雄の大蛇を退治した。雌蛇は閼伽井護法善神として祀られた。

当初は真言宗寺院だったらしい。峰延は東寺の僧だったが、創建した藤原伊勢人も造東寺長官だったと伝わる。平安京羅城門には兜跋毘沙門天が祀られていたが、それはのちに東寺に遷されている。

ついで鞍馬寺は浄土教の聖地として発展する。10世紀に京都で活躍した念仏聖・空也が鞍馬寺で修行したと伝え、その旧跡という「空也の平」という名の場所がある。また融通念仏を広めていた良忍は、ある日、青い衣の僧が訪ねてきた。結縁帳に名前を書いたと思ったらすぐに姿を消した。不審に思い、帳を確認すると鞍馬寺の毘沙門天王が念仏結縁者を守るに来たと書かれていた。その年の4月4日、鞍馬寺に参詣し念仏。寅の刻にお告げがあり、神名帳を授けたという。後世、良忍は融通念仏宗の開祖とされ、同宗では毘沙門天を非常に重視する。

さらに無名だが『本朝新修往生伝』や『本朝高僧伝』に名前が残る重怡(1074-1140)という僧は鞍馬寺の阿弥陀堂(現在の転法輪堂)で小豆を数取りに使った念仏を13年に掛けて行い、使った小豆の量が287石6斗に達したという。昭和の工事で境内の経塚が発掘されたところ、300点の遺物が出土。その中には重怡の銘が残る1120年(保安1年)の銅経筒もあったという。重怡は如法写経会を始めた。

940年(天慶3年)ごろ、由岐神社を創建

中世

多くの僧兵をかかえ1094年(嘉保1年)には賀茂の神人と抗争。1178年(治承2年)には大谷風早を延暦寺の僧兵と共に襲撃している。1183年(寿永2年)には源氏の上洛を恐れて後白河法皇がひそかに行幸しているが、これも僧兵の力を頼ったものという。

源義経は牛若丸と呼ばれた幼少、7歳の時に鞍馬寺東光坊に預けられた。昼は学問に励み、夜は天狗に兵法を学んだ。現在の鞍馬寺では遮那王尊として崇拝の対象となっている。1195年(建久6年)、源頼朝が剣を奉納(吾妻鏡)。剣は現存しない。

1126年(大治1年)、1239年(延応1年)に火災で伽藍が焼失しているが、朝廷や幕府から支援をうけている。1248年(宝治2年)再建

保延年間(1135-41)に天台宗になったが、1229年(寛喜1年)8月11日、青蓮院門跡が鞍馬寺検校となる。以後、明治維新まで青蓮院末となる。

1251年(建長3年)、将軍藤原頼嗣が願文奉納。1333年(元弘3年/正慶2年)8月13日、名和長年が依頼。1336年(延元1年/建武3年)、新田義貞が鞍馬寺に応援の依頼。これを受けて、僧兵は出兵し、賀茂社で足利軍と戦うが敗れる。

室町時代では花見の場所として貴族がたびたび訪れる。足利義満、足利義教、日野富子も。 戦国時代には武田信玄が祈願している。

1458年(長禄2年)火災。1464年(寛正5年)再興

近世

1580年(天正8年)、織田信長は鞍馬寺別当職を青蓮院門跡に安堵。豊臣秀吉は多くの社寺に母親の病気平癒を祈るが鞍馬寺にも祈願。2000石を寄進した。 豊臣秀頼は1610年(慶長15年)、由岐神社の割拝殿を再建。

江戸時代には徳川秀忠は黒印状を与えた。 1730年(享保15年)、輪王寺宮と青蓮院の間で、鞍馬寺について争論。 青蓮院門跡に加えて輪王寺宮の支配を受けた。輪王寺から寺規二十条を下された。1855年(安政2年)には輪王寺宮支配のみとなるが、1868年(明治1年)11月には再び青蓮院支配となる。

1716年(享保1年)、如法写経会を復興。さらに融通念仏会を大念仏寺忍通融海と共に復興した。庶民の信仰も盛んとなり、開帳も行っている。1769年(明和6年)開創1000年法要。1803年(享和3年)鑑禎1000年忌。人々に親しまれていた鞍馬寺だが、1812年(文化9年)の火災で大きな被害を受けた。本堂は1872年(明治5年)に再建している。

近現代:鞍馬弘教の立教

6院と2寺以外は無住となる。1910年(明治43年)27の末寺のうち21が無住。

  • 1924年(大正13年)貞明皇后の行啓
  • 1940年(昭和15年)本坊金剛寿命院
  • 1945年(昭和20年)1月、奥之院魔王殿
  • 4月に本殿、護摩堂、本坊火災
  • 1957年(昭和32年)鞍馬山ケーブル開通
  • 1974年(昭和49年)1200年記念大祭

与謝野晶子の書斎「冬柏亭」を移築

鞍馬弘教を立教

奉斎

  • 毘沙門天

鞍馬様式と呼ばれる毘沙門天像。当初の本尊は現在とは異なり、兜跋毘沙門天だったと考えられている。その後、現在国宝となっている毘沙門天三尊像が本尊となったが、やがて外されて、現在の様式になったという。現在の本尊は秘仏。

伽藍

鞍馬寺本堂(国土地理院空中写真より)
  • 本殿金堂:1971年(昭和46年)再建。鉄筋コンクリート造。毘沙門天を中央に向かって右に千手観音、左に護法魔王尊を祀る。背後には宝塔がある。
  • 光明心殿
  • 本坊金剛寿命院
  • 閼伽井善神
  • 転法輪堂:阿弥陀如来を祀る。1969年(昭和44年)再建。
  • 弥勒堂
  • 巽弁天社
  • 多宝塔
  • 義経供養塔
  • 東光坊跡
  • 由岐神社:別法人。
  • 鬼一法眼社
  • 吉鞍稲荷
  • 仁王門
  • 霊宝殿
  • 大杉権現
  • 義経堂
  • 不動堂:1934年(昭和9年)改修。
  • 奥之院魔王殿:1945年(昭和20年)に焼失するが、その後復興。
  • 遮那王殿
  • 寝殿:1924年(大正13年)竣工。中央の間には聖観音を祀る。
  • 冬柏亭:与謝野晶子の書斎。移築された。

子院

  • 真勝院:粟田本坊。青蓮院門跡の兼務。代理を置く
  • 月性院:『国花万葉記』に記述。1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。青蓮院門跡の院室石泉院を兼務。朝廷との折衝に当たった。
  • 福生院:『国花万葉記』に記述。1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。現在の寺務所。
  • 歓喜院::1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 円光院::1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 大蔵院::1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 吉祥院:1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 乗円坊:1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 宝積院:1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 戒光院:1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 勝宝院:『国花万葉記』に記述。
  • 実相坊:『国花万葉記』に記述。1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 本住坊:『国花万葉記』に記述。1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 覚真坊:『国花万葉記』に記述。
  • 妙覚坊:『国花万葉記』に記述。
  • 明覚坊:1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 梅本坊:1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 正円坊:1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 実住坊:1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 普門坊:1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 薬師坊:1791年(寛政3年)には廃絶(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 真正院:1791年(寛政3年)には存在(鞍馬寺并堂社之絵図下書)。
  • 妙寿院:幕府・輪王寺門跡との折衝に当たった。


組織

近世は青蓮院門跡が兼務。のち輪王寺宮の直轄となる。1869年(明治2年)、権別当と執行の職を廃して別当代を置き、歓喜院が兼務した。1876年(明治9年)には専任住職が置かれた。

初期

  • 鑑禎
  • 峰延

別当

青蓮院門跡が兼務。検校とも?

権別当

  • 戒光院:1627年(寛永4年)就任。
  • 雄讃:月性院。1634年(寛永11年)死去。1572年(元亀3年)まで歓喜院にいた。
  • 永真:1662年(寛文2年)就任。1668年(寛文8年)死去。
  • 賢秀:月性院。1668年(寛文8年)就任。1684年(貞享1年)死去。
  • 盛順:大蔵院。1704年(宝永1年)死去。
  • 永賢:1706年(宝永3年)死去。
  • 賢冲:円光院。のち月性院。1714年(正徳4年)権別当就任。1721年(享保6年)死去。
  • 俊海:福正院(福生院?)。のち執行となる。
  • 文秀:大蔵院。1780年(安永9年)死去。
  • 智統:月性院。1780年(安永9年)就任。
  • 泰順:円光院。1810年(文化7年)死去。

執行

  • 永雄:妙寿院。1627年(寛永4年)執行を辞職。
  • 実積院(宝積院?):1627年(寛永4年)就任。
  • 盛栄:宝積院。1662年(寛文2年)死去。
  • 賢雄:月性院兼戒光院。1662年(寛文2年)就任。1665年(寛文5年)死去。
  • 賢永:真勝院。1668年(寛文8年)就任。1685年(貞享2年)死去。
  • 周賢:法輪院。1701年(元禄14年)本堂再建。
  • 霊弁:月性院。1710年(宝永7年)死去。
  • 香海:福生院。1721年(享保6年)死去。
  • 仙空:妙寿院。1729年(享保14年)死去。
  • 実雄:月性院。1736年(元文1年)死去。
  • 文啓:歓喜院。1744年(延享1年)死去。
  • 俊海:福正院(福生院?)。元権別当で1775年(安永4年)執行就任。1780年(安永9年)死去。
  • 舜昌:月性院。1802年(享和2年)、青蓮院門跡に秘法を伝授。
  • 観典:月性院。1817年(文化14年)死去。
  • 秀円:福正院(福生院?)。1817年(文化14年)執行に就任。
  • 忍海:福生院。1844年(弘化1年)死去。
  • 光観:月性院。1844年(弘化1年)死去。
  • 堯典:月性院。1845年(弘化2年)死去。

住職(近代)

  • 1森真洞()<1876-1881>:1876年(明治9年)9月11日就任。1881年(明治14年)12月4日辞任。
  • 2信楽晃秀(1818-1901)<1882-1901>:伯耆国出身。1818年(文政1年)生。46歳で鞍馬寺月性院住職に就任。1882年(明治15年)春就任。1901年(明治34年)1月21日死去。84歳。
  • 3信楽真晁()<>:1919年(大正8年)1月31日死去。58歳。美濃国出身。1862年(文久2年)生。1896年(明治29年)鞍馬寺副住職。1901年(明治34年)5月13日鞍馬寺住職就任。
  • 4信楽真純()<>:

資料

古典籍

  • 鞍馬蓋寺漢文縁起
  • 鞍馬蓋寺仮名縁起
  • 鞍馬寺融通念仏会再興縁起

文献

  • 橋川正1926『鞍馬寺史』[1]

画像


脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E5%AF%BA」より作成

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